2017年4月23日日曜日

フアブル自然科学叢書

   フアブル自然科学叢書

かぶとむし
こがねむし
蜜蜂

葡萄虫
毛虫と蝶々
毒虫類
焼けついたよな砂の上を糞玉をころがしてゆく糞虫の話
同じ鉢のぐるりをどうどうめぐりしてゐる行列虫のおろかさ
青虫の腹をちびちび食ひやぶる歩行虫(おさむし)の残忍
蠍の交尾 蜘蛛の食慾
自然へのかぎりなく深い大きな愛をもつて
わかりやすく 平易に
フアブルの語る自然科学
彼の観察はあくまで鋭く
しかも彼の眸はやさしく輝やく
何が正しく何が邪しまであるか
僕らは自然についてそれを見る
人間、僕らの社会の善や悪はなんと小さくかたまり
なんとうすぎたなく汚れてゐることだらう
そしていかに貧しい多くの人々の本能は××によつてねぢまげられてゐることだらう
彼は遠慮深く語り
大胆に暗示する
子供たちの先生
ポール叔父さん
学者や坊主や金持には用のない名だ
僕はおぼえてゐる
「フアブル、おゝ昆虫記の著者」
とチャールススタウンで死を前にしてヴアンゼツチが感激をこめて云つたのを


フランスの博物学者J・H・ファーブルの『昆虫記』は、1879~1910年に出版された全10巻の昆虫観察記録です。副題に「昆虫の本能と習性の研究」とあるように、昆虫の生活の驚嘆すべき本能や習性を冷静に観察し、ときに巧みな実験も試みて明らかにしています。

詩にもある、糞(ふん)を丸めて餌にしたり、そこに卵を産み付けるタマコガネ(フンコロガシ)の習性、ハチの一種ツチスガリの狩猟方法などの記載はとくに有名です。『昆虫記』は日本ではとくに愛読され、和訳も数多いのですが、最初に翻訳・刊行したのは十三郎にも大きな影響を与えたアナーキスト大杉栄(1885-1923)=写真=でした。1922年のことです。

大杉は軍人家庭に育ち、陸軍幼年学校に入りますが、級友との格闘が原因で退学処分となりました。その後、東京外国語学校(東京外国語大学)の仏語科に入学、谷中村事件を機に『平民新聞』の幸徳秋水らを訪ね、社会運動の世界に入ります。大逆事件で幸徳らが処刑されると、その後の運動の指導的な役割を演じます。

「一犯一語」を掲げ、収監のたびに新たな言語を習得し、翻訳・執筆で生活の資を得ていました。1919年、尾行巡査殴打事件で豊多摩監獄収監中に『昆虫記』の英語抄訳版を読み、翻訳を決意します。底本には、同年刊の仏語原書を用い、叢文閣から刊行されました。

訳者序で大杉は、ファーブルによるフンコロガシの観察について「其の徹底的糞虫さ加減!」と感嘆しています。個性と自由を尊重し「生の拡充」を唱えた持論に通じるものを感じたのでしょうか。大杉は、ダーウィンの『種の起原』も訳しています。

*小野が物事に感動するときの水々しい心の動きがよくうかがえる。と同時に、感動の方向を冷静に指示していく小野の手つきはまことに鮮やかである。《安》

2017年4月22日土曜日

留守

   留守

久しぶりにたづねていつたが友はゐなかつた
置手紙でもしやうと思つて裏口からあがつてみた
そこら中新聞や古雑誌が散乱しチヤブ台の上にも電気の傘にもホコリが分厚くつもつてゐた
かたへの壁には砕けたポスターがはつてある
それは昨年の夏太平洋のかなたから日本の同志のもとへ送つてきたあのサツコとヴアンゼツチのための一枚であつた
かれらはもうゐない
雨水か何かがじみこんだのであらう、活字の赤インキが全面に散つてそれが血痕のやうにどす黒くにぢんでゐた


「サツコとヴアンゼツチ」とは、サッコ・ヴァンゼッティ事件の2人。1920年代のアメリカの殺人事件裁判で、政治的でっち上げといわれています。

1920年4月、ボストン市郊外の靴工場を数名の強盗が襲い、2人を殺し大金を奪いました。3週間後、イタリア移民で靴工のニコラ・サッコ(Nicola Sacco、1891-1927)=写真右=と魚行商人のバルトロメオ・ヴァンゼッティ(Bartolomeo Vanzetti、1888-1927)==がまず別件で逮捕され、この事件の犯人とされました。

2人とも無政府主義者、徴兵拒否者で、拳銃を持っていました。またこのころ、司法長官パーマーの赤狩りなど左翼は弾圧され、移民制限が叫ばれていました。翌年5月に裁判が始まり、証言のみで物証不十分のまま、7月に有罪とされます。

それは政治信条を超えた多数の人の抗議を呼び起こし、何度か控訴、再審が請求され、さらに25年、自供者が現れたが認められませんでした。米国内外で有名人も参加する釈放運動が高まり、執行責任者の知事は委員会に諮りましたが、誤審なしとされ、2人は27年8月、電気椅子に送られました。

この事件はその後も長く論じられ、1959年にはボストン司法委員会は再審請求を取り上げ、無罪を証しました。しかし、61年の条痕検査ではサッコの拳銃が犯罪に用いられたとされ、彼を有罪とみる見方もあり、今日まで見解は分かれています。

*1920年アメリカで強盗殺人容疑でイタリヤ移民・無政府主義者であるニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッチが逮捕された。無政府主義・共産主義の弾圧のための逮捕といわれ、世界的に無罪釈放運動が行われた。2人は1927年死刑になった。伊藤新吉はこの作品について次のように述べている。
「まるで空屋のような家の模様をスケッチした作品のようにみえるが、おそらく作者の意図はそこにはない。この乱雑な家からうける荒涼感をひっかかりにして、作者はサッコとヴァンゼッチのこと――それによって触発される階級的連帯感について語ろうとしたのである。それによって2人のイタリア人の死刑をめぐる国際的な抗議運動が、自分の中に生きてあることをいおうとしたのである」。伊藤はまた小野の手法に言及して次のように述べている。
「作者は“自分の中にある”サッコ、ヴァンゼッチ事件を突きはなしてみており、それと同時にこの家がルスなのは、なにかの“事件”があったためかもしれぬことを、その荒涼感をとおして暗示した。それ以上の主観や感想はひとことも語ろうとしないし、その表現手法はリアリスティックといえぬまでも客観的である。この客観的態度――主題をちらっとのぞかせる手法は、はやくから小野十三郎の表現手法の特徴をなしていて、それがプロレタリア系の詩人としてめずらしいのだが、その一方もどかしさを感じさせる」。
「もどかいい」という評言は伊藤の感じ方であって、「もどかしい」かもしれないが、伊藤自身的確に指摘したように、サッコ、ヴァンゼッチ事件への連帯感と、友や自分を取り巻く現実の事件への抵抗とを正確に結びつけるための小野の手法の有効性は明らかである。《安》

2017年4月21日金曜日

鏝と鋏

   鏝と鋏

「××××が生前使つてたものだ」
さう云つて仲間は手にしてゐたものを畳の上に並べた
それは古風な鏝と鋏であつた
鏝は赤く錆びつき、異様に大きい鋏は手垢で黒く光つてゐた。

俺は今さらのやうに彼が女であつたことを想ひ出した
こゝにも彼女が一生を懸けて苦しみ戦つてきた路があつた
叛逆児××フミが女性であつたと云ふことは必ずしも偶然ではなかつたのだ
錆びた鏝を持ちあげてしづかに置いた。


「鏝(こて)」は、形を整えるために用いられる道具。①左官用、②裁縫用、③整髪用などがあります。「鏝と鋏」という組み合わせと「今さらのやうに彼が女であつたことを想ひ出した」という詩句からすると、ここでは「裁縫用」でしょうか。

裁縫用としては、鉄や銅で作られたひしゃく形の容器に炭火を入れて使う火熨斗(ひのし)や小部分に使うこてがあります。絹織物の地直し、絹、毛織物などの手ではつかないきせかけ、縫い目を整えたりすするのに用います。笹の形に似た笹ごては先がとがっているので縫い代を割ったりするのに便利で、丸ごては布の焼べらとしても使われる。

「××フミ」は、大正期のアナキスト、ニヒリズム的な思想家である金子文子(1903-1926)=写真、wiki=のことでしょう。戸籍と違い、実際は1904(明治37)年、横浜生まれ。

両親からも、朝鮮に住む叔母からも温かい扱いを受けず、辛い思いで少女時代を過ごしました。1918(大正7)年に上京。新聞売り、露天商、女中などをして苦学しているとき、朝鮮人朴烈(準植)を知り、朴のアナキズム的な思想や虐げられた民族の生き方に共鳴します。
生活を共にしながら、『太い鮮人』『現社会』などを刊行。1923(大正12)年の関東大震災の際に朴と保護検束され、すぐに大逆罪の容疑者に変更。公判では、天皇制否定の思想を隠さず陳述し、1926(大正15)年3月大審院で朴と共に死刑をいい渡されます。無期懲役に減刑されるものの、宇都宮刑務所栃木支所に送られ、そこで縊死しています。

*「××××」が「××フミ」つあり彼が女であったことを想い出したとき「俺」は彼が男としてふるまわなければならなかった苦しい闘いの日々を強く想い出しているのだ。「錆びた鏝を持ちあげてしづかに置いた」という動作は、だから単なる追憶の動作ではなく、屈折した確認の動作であるところにこの詩の良さがある。××フミとは朴烈事件の朴烈の愛人金子文子である。大正12年天皇暗殺を企ててともに検挙され文子は獄中で自殺した。《安》

2017年4月20日木曜日

横はつてゐるもの

   横はつてゐるもの

夜明だ
野の端まで霜が降りてゐる、が土はまだ棺の蓋だ
霜柱の下に無限大の燐のやうな蒼白い顔が横はつてゐる
「地を蹴つて起てよ!」
奴は全地上にのさばり反つてゐるので
どこが手だか足だかわからない
力のいれどころに困つてゐるのだ
奴は起たう起たうと藻掻き苦しみ
顰めつ面をし
身をゆすぶり
空に向つて唾を吐きかけたりしてゐる

棒つ切だつて空高く舞ひ上るのだ!


当時、十三郎が身を投じていた「アナキズム(anarchism)」は、第二次世界大戦前の日本では無政府主義と訳され、アナキストは直接行動やテロリズムを主張する過激思想の持ち主として恐れられていました。

しかし本来は、語源的にギリシア語の「α’ναρχο(アナルコス)」つまり「支配者がいない」ということばに由来し、権力的支配や国家、政府のような権力機関の存在を極端に嫌い、人間の自由に最高の価値を置く思想として位置づけられています。

アナキズムの思想が労働・社会運動、革命運動のなかで世間の注目を浴びるようになったのは、19世紀後半以降の社会主義とくにマルクス主義との対抗関係においてです。

近代資本主義の発展は、人間の間に経済的、社会的不平等をもたらし、この格差を維持するために自由の拡大も抑圧されました。このため19世紀には、国民の大半を占める労働者や農民の地位を改善することを目ざし、さまざまな社会主義思想が登場しました。

アナキズムはこうした思想状況のなかで登場した社会主義思想の一つです。マルクス主義者とアナキストは激しく対立したものの、ときに両派は、専制支配の打倒や反ファシズムのために共同して闘うこともありました。

大正期の日本でも、いわゆるアナ(大杉栄)・ボル(堺利彦、山川均)論争が起こり、「パリ・コミューン」の労働者たちの中にはプルードン主義者がたくさんいたし、1936年に始まったスペイン内戦の初期にはボリシェビキとアナキストとの共同行動もみられました。

こうした社会運動の中に投じた若き詩人もやがて、何が良くて、何が悪いのか、何をどうすることに意味があるのか、カオスに迷い込んで行く場のないところにいらだつ時期もあったのでしょう。

まさに「どこが手だか足だかわからない/力のいれどころに困つてゐる/起たう起たうと藻掻き苦しみ/顰めつ面をし/身をゆすぶり/空に向つて唾を吐きかけたりしてゐる」のです。

*この異様なイメージにとりつかれたとき、これまでになく小野の表情はかげっているようにおもえる。「棒つ切だつて空高く舞ひ上るのだ!」という叫びは威勢がいいようで、どこかいらだちの調子が含まれている。小野がここで言葉で押えようとしたものはきっと小野自身あつかいかねるもの、単一でないものであったと私にはおもわれる。つまり労働者階級とか味方とか一概にいってしまえないもの、共感と反感とをないまぜた口調でしか語れないもの(部分であって全体、他者であって自己であるもの)ではないだろうか。《安》

2017年4月19日水曜日

反古

   反古

これを最後の手紙にしたい
少なくとも君と俺との間ではね
俺は俺の筆不精をすまないと思つてゐる
だが友だち! 俺たちの愛や友情について
いつまでもくどくど書きたてることに熱中するよりも
やらなければならない十倍も二十倍ものことが眼の前にあるのだ
あらゆる場合のあらゆる言葉が俺たちの親愛の表示でなければならないなんてまつたく不生産的な話ではないか
君も俺もこの感じ易い泣虫の心臓にブレーキをかけやう、グイと
そして俺たちは希望に燃えて俺たちの一歩前を歩いてゆかう
俺は君を忘れてゐられる
俺はしぶとくがまんできる
病気するな
俺たちの力でどうにもならぬのはこいつだけだ。


『学研全訳古語辞典』によれば、「反古」(ほご、ほうご、ほぐ)とは、
①書画などをかいて不用となった紙。書き損じの紙。ほご紙。源氏物語(浮舟)に「むつかしきほぐなど破(や)りて」
=(死後まで残しておいては)めんどうな書き損じの手紙類などを破って。
②無駄。不用になったもの。仮名忠臣蔵に「ほぐにはならぬこの金。一味徒党の御用金」=無駄にはならないこのお金。同志の仲間の御用金にと。
とあります。

*「やくそく」と「反古」は、いずれも、余分なものを一切切り捨てて戦おうという叫びであるが、どこか客観的でどこか明るい感じがする。《安》

2017年4月18日火曜日

やくそく

   やくそく

握手なら手間は取れまい
だが帽子を脱いでまたかぶると云ふやうなしぐさはすでにまだるつこい
ふり向きもしないでいつてしまふ奴は同志だ
いつまでも窓から首なんか出してゐる奴は敵だ
言葉が此の際何になる
兄弟と名のつく奴は世界の何処にゐたつて図太く笑つて生きて戦つてゆける奴だ
まるで機械ぢやないかなんて泣言は通らない
長つたらしい物の名なんかは以後すべてきりつとした略語で呼ぶべきだ
とにかく俺たちはムダな時間を持たなくなつた
今に見ろ、俺たちの約束を握手を省略する
そして俺たちは一層親密になる
盤石の工事がもつとどんどん積極的に進むやうになる。


「帽子を脱いでまたかぶると云ふやうなしぐさはすでにまだるつこい」「長つたらしい物の名なんかは以後すべてきりつとした略語で呼ぶべきだ」などと、余分なものはみんなはぎ取って闘おうと呼びかけています。

「同志」に「敵」という言葉は、最近はあまり耳にしませんが、この詩の同志は、社会主義革命という志を同じくする革命同志のことを言っているのでしょう。

フランス革命(1789-99)=写真=のとき、「同志」にあたる「Camarade」という言葉が、それまでの monsieur (我が主)や madame(我が婦人)に代わった革命勢力により使われはじめたそうです。

19世紀中ごろからは、社会主義運動で仲間を呼ぶ言葉としてドイツ語の Kamerad 、英語の Comradeなど、ヨーロッパ各地でで同志に当たる言葉が使われ始めました。

ロシアでも、別語源の「товарищ」 が使われ、1917年にソビエト連邦成立後、普及します。中国では、孫文が同志 (トンチー) という言葉を使い始めたとされているそうです。

1949年の中華人民共和国成立後も、中国国内で広く使われましたが、台湾で同性愛者間における呼びかけの言葉として使われるようになり、1990年代以降、中国国内でも古参の共産党員以外はあまり用いられなったとか。

2017年4月17日月曜日

手帳から

   手帳から

病気にならうと
ときに気持がどう変らうとも
俺は帰るべきひとりの巣をもたない
何故なら俺はそこに無数の針を殖えつけてゐるからだ
生活の陰影を隈なく曝いてしまう強烈な光り!
そこに俺のゆく路が照らしだされる
愛するが故に憎みぬく
そこに鍛えらるべき俺の精神と肉体がある

何を勇敢と呼び何を卑怯と呼ぶか俺は知らない
たゞ俺は自らの退路を断つとき最もよく進み得ると云ふことを知つてゐる


退却する手段や道筋をなくすこと、どうやっても後に退けない状況にすることなどを意味する表現。

1920(大正9)年4月、大阪から上京した18歳の十三郎は、本郷界隈を転々とし、東洋大学に入学しましたが8カ月ほどで退学します。退学後も、郷里から月々多額の仕送りを受けて生活していました。

1923(大正12)年には、詩誌『赤と黒』が発刊。萩原恭次郎、岡本潤、壷井繁治、川崎長太郎らと交際を結びます。

白山上の電車通りにあった本屋「南天堂」の二階の喫茶酒場に夕方になると集まって、酒と議論と歌で気勢をあげ、大乱闘のあげく十三郎が二階の窓から外に放り出されることもあったとか。

バクーニン=写真、大杉栄などアナーキズムに関する内外の書を読みふけっていたのもこのころです。「退路を断つ」というのは、若い運動家たちがいかにも口にしそうな物言いです。

*自分に対する反逆を「退路を断つ」という決意を軸として捕えたものである。いずれも語勢がいつになく断言的であるのが、この場合かえって心情的なリアリティを感じさせる。《安》