2017年8月21日月曜日

鬼あざみ

   鬼あざみ

このぎざぎざ。
この鋭いトゲ、花冠の重量。
なんて大きな紫の鬼あざみだ。
ほんとうにもいできたのか、きみの手で。
あたりを圧する絶対の乾燥。
どこに、どこに咲いていたのだ?
あっちというだけではわからない。
おしえてくれ、どこだ?
火を噴いてる山でも
見えるか。


「鬼あざみ」は、キク科の多年草。オニノアザミともいいます。茎は太く、多くは斜上し、高さは0.5~1メートル。上部に縮れた毛やくもの巣状の毛があります。根出葉は花期にもあり、楕円形で、長さ30~65センチメートル、羽状に中裂します。裂片は卵形で、縁に大小の鋭い鋸歯があって、その先の「ぎざぎざ」は「鋭いトゲ」になっています。6~9月、茎頂に数個の頭花が接してつき、下向きに開きます。総包片は、暗紫色を帯びて粘着。中部地方から東北地方の日本海側の海抜1000メートル以上の山地に生える日本固有種です。

*小品とはいえ、秘められた起爆力は相当なものだ。《安》

2017年8月20日日曜日

いま、この時刻に

   いま、この時刻に

路上に
やせた脛を投げだし
壁にもたれて
眠っているやつがいる。
乞食みたいなそいつも
そいつの前を通りすぎるやつも
みな白い衣をまとっている。
らくだが通ったり
羊の群が通ったり
女が頭の上に大きな籠や甕をのっけて通ったりしている。
竜舌蘭のような植物もうつっている。
太陽直下で
眠っているそいつは
戦車が前を通っても平気だ。
脛を投げだしたまま
いつまでも眠っている。
榴弾砲かなにかの
長い砲身を前に突きだした重戦車が
あとからあとからやってくる。
夢の中にも太陽はあたっているが
やつがいま見てるのは
砂漠の砂の中にいる
黒と白の縞目もあざやかな一匹の蛇。
美しい蛇は
ときどきからだの一部を
砂の上に波うたせて
砂の中を水蛇のようにゆく。
砂埃りの舞い立つ中から
長い砲身を突きだして戦車はなおもやってくる。
砂漠の町には戦車が一ばんよく似合う。
あとからとからやってくる。
だれもおどろかない。
まだやってくる。
まだまだやってくる。
長い砲身を前に突きだして
砂埃りの中から現われる。
けれど眠ってるやつは平気だ。
彼は縞目もあざやかな美しい蛇の夢を見ている。
いつまでもそれを見ている。
おどろくやつなんかいない。
それは太陽と同じこと
それは砂漠の砂と同じこと
みんなかれらのものなのだから。
砂埃りが引くと元の町だ。
白い衣をきた人たちが往来している。
らくだが通っている。
頭の上に大きな籠や甕をのっけた女が通っている。
竜舌蘭のような植物も
まだ見える。


「竜舌蘭」=写真、wiki=は、リュウゼツラン科の大型常緑多年草。メキシコ原産の観葉植物で、鉢植や庭園で栽培されます。葉は根生し、多肉で長さ1m以上になり、縁と先端に硬いとげがあります。花を見かけることはまれですが、花茎は株の中心から5m以上も高くそびえ、黄色い筒状の花を多数つけ、花がつくと全株は枯死します。

アメリカ、メキシコの乾燥地や旧熱帯の森林に生えています。米テキサス州南西部の岩陰遺跡の糞石からは、2800年前のリュウゼツランの一種の花粉や含まれていたシュウ酸石灰の結晶がみいだされています。メキシコではリュウゼツラン類を「マゲイ」とよんで、プルケ、メスカルやその一種のテキーラなどの酒をつくるのに使われています。

「榴弾砲」(りゅうだんほう)は、17世紀頃に一般化した火砲。平射で長距離をねらうカノン砲と、曲射で近距離用の臼砲の中間の砲種として、火砲の基本的な型の一つとなりました。援護物後方の目標を攻撃したり、砲台や軍艦甲板を上方から破壊するのを目的としています。近代以後、口径10cm内外の野戦榴弾砲が戦場で重宝がられるようになりました。日本の旧陸軍では、重、軽の2種類を使い、軽榴弾砲は口径10cm、最大射程1万m、重榴弾砲は口径15cm、最大射程1万5000mだったそうです。

*この作品は前出の「寝汗の世界」と似ているが、ずっと深い魅力がある。「寝汗の世界」の直接的な実在感は否定できないが、観念の世界であり夢の世界であり「空想的作品」であるのだが、この作品は、夢だ夢だととおもいつつ脂汗流してしまうようなところがある。眠っているやつは蛇の夢を見る。眠っているやつのまえを戦車があとからあとから通りすぎていく。いつか、夢の砂漠も現実の砂漠も、蛇も戦車も男も太陽も、時間空間を絶してあい交わってしまっている。小野の云い方をもってすれば、小野はこのとき「路上に/やせた脛を投げだし/壁にもたれて/眠っているやつ」の中へ住みついたのだ。《安》

2017年8月19日土曜日

工作者の旅行

   工作者の旅行

夕日を
まともにうけた岩山から
磁鉄鉱の露頭が
はげしく照りかえしてくるために。
地にみだれ伏す熊笹や羊歯。
爬虫の鱗のように密生し乾燥している灌木の茂みが
行手をさえぎっているために。
砒素のごときものが投じられ
渓谷には無数の魚が白い腹を見せて浮上しているために。
しずまりかえった世界の中で
大音響とともに
崖が爆発し崩壊するために。
沸き立つ蝉時雨。
土砂降りの夕立。
その中でまったく途方にくれるために。
熱い鉱泉が湧く岩間で沐浴している太古さながらの住民から
ふいの闖入者として
猜疑の眼で見られるために。
人かげもない部落で
物かげにつながれている犬に
気ちがいのように吠えられるために。
その人跡稀なるところは
なにものか設けられた
立ち入るすきまもない城砦のごときものであるために。
山には濛々と
硫黄の煙がたちこめているために。
夢も計画も一挙にぶっこわされるために。
真上の空に
永久にとどまっている夏雲の下。
どこかの山間の
鉄道地図にはない無人駅から
そびえ立つ石切橋の乱反射と
朽ちた柵の棒杭の先に羽根を休めている揚羽蝶の
かすかな形影を最後に
だれも知らない時間に
一人の目撃者もなく
行方不明となる。


「磁鉄鉱」=写真=は、鉄の重要な鉱石鉱物。正マグマ性鉱床、変成鉱床、堆積鉱床、漂砂鉱床(砂鉄)、接触交代鉱床のなかなどに産するほか、各種火成岩、変成岩、堆積岩、超塩基性岩などの少量成分鉱物としても産します。また、まれにほとんど磁鉄鉱からなる溶岩の存在も報告されています。八面体、斜方十二面体など複雑なものが多いのが特徴です。
 日本で鉱床として多産したものには接触交代鉱床が多く、岩手県の釜石鉱山、奥州市江刺区の赤金鉱山、岡山県の山宝鉱山などがよく知られています。鉄・銅などの硫化物を伴うことが多く、脈石鉱物として共存するものは、正マグマ性鉱床ではチタン鉄鉱、鉄苦土鉱物、蛇紋石など、変成鉱床では石英、角閃石、緑泥石、赤鉄鉱など、接触交代鉱床では方解石、緑簾石など。強い磁性があるとされますが、純粋なものは磁性はないそうです。

「石切」というと、生駒山地の西麓、辻子谷の扇状地に位置する東大阪市の地名を思い出します。生駒山の石(生駒石)を切り出したことに由来し、大坂城築造の石もここから搬出したと伝えられています。石の切出し、加工,石垣の造営などをする「工作者」である石材業者や庭師がいまも多いようです。

*小野に『工作者の口笛』という評論集があり、そのなかに同題の文章がある。昭和37年に「新日本文学」に発表したこの文章のなかで小野は、詩人を返上して「工作者」たらんとした谷川雁に触れて「目下わたしに最も興味があるのは、詩を書くことだけに没頭している人間の詩精神の在り方よりも、このように、詩に見切りをつけ、詩の論理に代うるに工作者の論理と行動をもってする人間が、なおかくすべくもなく内に持している詩精神のその在り方であります」と述べ、「現代の若い前衛的な詩人たちの詩的認識の中には、たしかにそれを詩人とか歌い手という名では呼べない、工作者とでも云うより呼び名がないような、これまでの詩の世界にはあまり見られなかった異常な人間がはいりこんできていることは事実です」とも述べている。そして小野の手もとにぐっと引きよせて「周囲の情勢がどんなに変化しても、それによって、今度こそビクともせぬ感性の不動の秩序を自らきずきあげるこの工作の進行状況をしっかりとたしかめることができたならば、歌の一つや二つがけしとんでもかまわないという認識」が生れていると述べている。
 前作「奥の細道」の「退路を断つ」旅行に、「工作者」をかさねあわせて、「工作者の旅行」は、できあがったといえよう。《安》

2017年8月18日金曜日

奥の細道

   奥の細道

ゆく先には
いつも町があった。
構内線ががちんがちんとわかれひろがり
白い蒸気を吐いている機関車や
跨線橋が近づいてくると
そこは人口十万か十五万の中小都市であった。
その町には大学があった。
サークルというやつもあった。
チャックのついた鞄をさげて
芭蕉が降りると
大学生や労働者が迎えにきていた。
ときには出迎えは
詩を書く青年であったり
結核患者であったりすることもある。
芭蕉はかれらと車に乗って
街はずれの大学に行く。
工場に行く。
そこで五十人ばかりの人間にとりかこまれて
一席俳話をやる。
そして話がすむと
「ザンボア」とか「青い鳥」とかいう
しゃれた名前の茶店で
弟子たちとビールを飲む。
お城なんかにひっぱっていかれるときもある。
芭蕉は風に吹かれながら
ネオンの燈もまじった
田舎夕べの市街を見わたすのだ。一句生れかね。
だが、いま芭蕉のいるところはどこだ。
どこの山国をゆくローカル線だ。
その先には町はない。
跨線橋もない。
出迎えるやつはだれもいない。
予想しないことがやがて起る。
芭蕉はいまおそろしく不安だ。
眼をやると
灼きつくような秋の陽ざしの中に
赤いとうがらしを干しわたした農家の庭が
つぎつぎと はすになってすぎていく。
その真赤に燃えたつものは
いつまでもいつまでも
すぎきたり、すぎ去り
つきることがない。


芭蕉の「奥の細道」は、1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)、門人河合曽良を伴って江戸を旅立ち、奥羽、北陸の各地を巡遊、8月21日ごろ大垣に入り、さらに伊勢参宮へと出発するまでの、約150日間にわたる旅を素材とした俳諧紀行です。

芭蕉は3月27日の早朝、門人曽良を道連れに、知友門弟たちとの離別の情を「行春や鳥啼魚の目は泪」の句に託して旅立ち、草加、室の八島を経て日光山東照宮に詣で、黒羽滞在中には雲巌寺に仏頂和尚山居の跡を訪ね、謡曲の名所殺生石、遊行柳を見たのち、待望の白河の関址を越えて、ようやく旅心が定まりました。

須賀川に旧知の等窮を訪ねて「風流の初やおくの田植うた」を披露。浅香山、信夫もじ摺の石、佐藤庄司の旧跡、武隈の松などを見て、5月4日(陽暦6月20日)仙台に入り、近郊の歌枕を訪ね、画工加右衛門の風流心に打たれます。壺碑(多賀城碑)を見て塩竈神社に詣で、松島の勝景を中国の洞庭湖や西湖の眺めにも劣らぬと賞賛しますが、絶景を眺めたときには詩作を控えるという中国の文人的姿勢に倣って発句を記載しません。

石巻を経て平泉に至り、奥州藤原氏三代の栄華の跡に涙を流して「夏草や兵どもが夢の跡」と詠み、自然の猛威に堪えぬいた光堂をたたえて「五月雨の降のこしてや光堂」と残す。出羽国尾花沢に清風を訪ねてくつろいだのち、立石寺に詣でては「閑さや岩にしみ入蝉の声」。最上川を下り、出羽三山を巡礼して、鶴岡、酒田から象潟に至り、松島は笑顔の美人、象潟は悲愁の美人と対比的に叙述して「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠みます。

越後路では「荒海や佐渡によこたふ天河」と旅愁を詠じ、金沢、小松、那谷寺、山中温泉と来て曽良に別れ、福井から等栽とともに敦賀に行き、西行ゆかりの色の浜に遊んでは「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」。露通の出迎えを受けて大垣に入り、門人たちから歓待されましたが、やがて9月6日(陽暦10月18日)伊勢の遷宮を拝もうと「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句を残して大垣を旅立つところで紀行は結ばれています。

*いつもちゃんと出迎えられて、ちゃんと見送られて、無事に旅とやらをつづけてきた現代の芭蕉は、いまや「おそろしく不安」になっている。行く先に町がないから、出迎えるやつがいないから、こんどは無事に帰ってはこれないらしいのだ。芭蕉ならぬ小野もたのまれて各地のサークルめぐりなどをする。出かけていって市の話などをする。
「ゆく先はいつも人口十万か十五万ぐらいの中小都市で、そこには大学があり、労働組合があり、サークルがあり、駅のホームに降り立つと、大学生や労働者が迎えきてくれている。ときには出迎えは詩を書く青年であったり、教育委員会の職員だったりする。やってきた講師はかれらと車に乗って、街はずれの大学や工場や公民館みたいなところに行く。お寺であったりすることもある。そこで、多くても百人に満たない若い人たちの前で詩の話をする。そしていくばくかの謝礼をもらって、また駅まで一しょに車で来た四、五人の人に見送られて帰ってくる。行きっきりということはまったくなく、必ず当然のように帰ってくるこのような行動のくりかえしに、いい気なもんだなと、ときにわたしは疑問に感じることがあった。あえて詩や文学サークルだけの問題だけでなく、世の中には、行きっきりというか、自ら退路を断つというか、そういう地方の人人の日常の中に膠着してしまわなければわからないことがらがずいぶんとあるのだ。そのとき、その場でちょっと相つながったというような実感と、その記憶だけで、自分の行動を合理化していることをはずかしく思うときがあった」(『奇妙な本棚』)。
 この小野の文章を読めば、この作品のモチーフは判然とする。「行きっきり」になるかもしれない、「自ら退路を断つ」ことになるかもしれないと、「おそろしく不安」になっている現代の芭蕉は、いまはじめて「奥の細道」へわけ入ろうとしているのだ。云ってみれば、これは現実との対し方の問題であり、と同時に詩と大衆についての問題であり、専門家の問題である。「なるほど、詩が大衆のものになる、それも結構、詩がだれにも理解できるようになる、それも結構、詩はあくまでもわれわれの生活に必要だ。しかし、専門家の詩人が必要だ。あくまで専門家としての詩人が必要だ、必要だ」というナジム・ヒクメットの言葉を小野は先に引用した文章につづいて想いをこめて引用している。《安》

2017年8月17日木曜日

寝汗の世界

   寝汗の世界

どこにも
とどまらず
地をひく雲の翳のように
通りすぎた。
爆発としか形容できないことが
ぴたと静止して
そのまま氷結してしまったような世界だった。
行く先に
傘松のまばらな並木が
つづいていた。
裂けた夕焼空に
大きな風車がそびえている丘もあった。
黄色の陽ざしの中には
名も属もわからないガラスのような
草花が咲いていた。
水かさの増した
褐色の大河もながれていた。
逆光に黒く
奇怪なかたちをした帆影が見えた。
迷いこんだ白っぽけた街は
ただ土壁だけだった。
窓も入口もなかった。
「カクタス」のマークそっくりの
樹状シャボテンが生えているところもあった。
そこには
弁慶号のような
大きな煙突を持った旧式機関車と
無蓋貨車が放棄されていた。
横断幕が風がひるがえってる
無人の町もあった。
つたかずらが
鮮やかに
真赤な花をつけてるジャングルが現われた。
洞窟があった。
携帯無線機の函がころがっていた。
臼砲をすえた
中世の城砦が
断崖の上に見えた。
流氷がもりあがり
ぶつかりあってる海もあった。
巻雲が光る空に
金属製の巨大な団扇が廻転していた。
そして
突如、あたりは砂漠となった。
包(パオ)のようなものが見え
その遠いはてに
かたち正しい茸雲が突っ立っていた。
それはスエン・ヘディンも
オーレル・スタインも
決して見たこともないものだった。
そこからまた
元の傘松の並木になり
風車になり
菫色の陽ざしの中に咲いてる
見も知らない
草花の径に
なっていった……


日本の代表的な鉱業会社、日本鉱業は、昭和25(1950)年以降、「ニッコー石油」のブランドで石油製品を販売していました。当初は創業者・久原房之助が自ら考案・決定したとされる「太陽の中に月が入った形(金環食)」を図案化したものを使っていましたが、昭和36(1961)年、水島製油所の操業を機に「サボテン」を図案化した「「カクタス」のマーク」=写真=に給油所のシンボルマークを変更しています。

「弁慶号」は、1880(明治13)年にアメリカのH・K・ポーター社から輸入した蒸気機関車。義経号とともに北海道の最初の鉄道である幌内鉄道で走りました。開拓使がアメリカから鉄道技術を導入したため、最初の機関車は1C型のテンダー機関車(7100形式)で、西部劇映画に登場しそうなスタイル。大きな煙突、警鐘、牛よけ、大型のヘッドライトや運転室などが特徴です。1924(大正13)年に除籍となりました。

「スエン・ヘディン」(Sven Anders Hedin、1865~1952)は、スウェーデンの地理学者・探検家。1893年以来、数回にわたって中央アジア・チベットを探検し、楼蘭遺跡やトランス・ヒマラヤ山脈を発見、ロブノールの周期移動を確認しました。「オーレル・スタイン」(Mark Aurel Stein、1862~1943)は、英国の考古学者・探検家。中央アジアを探検し、敦煌で多数の仏画・仏典・古文書を発見、古代東西交渉史の究明に貢献しました。

*傘松の並木にはじまる諸々のイメージはこれまでの小野の詩のなかにくりかえしあらわれたものの一部である。それらすべてが茸雲突っ立つ砂漠にとってかわり、その砂漠には諸々のイメージがくりかえし拡がる。「爆発としか形容できないことが/ぴたと静止して/そのまま氷結してしまったような世界」がまざまざとつくりだされている。時間と距離を絶した、だからこそいっそう直接的に歌われた「寝汗の世界」だ。《安》

2017年8月16日水曜日

土讃線の雨

   土讃線の雨

讃岐は 晴
土佐は しぐれ
山の中腹に
県境の標識が立っている。
それもまたたくまにすぎた。
窓の外は
眼のとどくかぎり
台風のあとのように
晩稲が重くたれ伏している。
重なりあって
淡い秋の太陽を浴びている。
上の方から、というとおれの乗ってる列車の上からだが
サッと一団の雀が舞いおり
野面に散開して
消えた。

フロリダのマイアミ空港を飛び立った
ドミニカ航空会社の双発DC3機が
カリブ海を南下している。
低空をヤシの木がかすめ去り
ガタン、ガタンとひどいバウンドで着陸すると
そこはドミニカの首都サントドミンゴのターミナルだ。
カメラを肩にかけた一人の日本人がタラップを降りてきた。
どこかで見かけたことがある男だ。
そうだ、きみは ついこの間
ベトナムのジャングルにいたあの……
よう、またこんなところで!

ふと眼がさめた。
大歩危をすぎてから
小一時ばかりおれは眠っていたらしい。
雨はまだ降りつづいている。
前よりもだいぶはげしくなってきたようだ。
夢の中に現われた男は
それからどこへ行ったか。
ドミニカでは
革命軍が首都の中心街に立てこもっている。
ぐるりを米軍とOAS軍が取り巻いているかっこうである。
とまあおれも海をこえてきた。
鉄条網はないが
県境もこえたのだ。
この旅の終着駅
南国土佐の首都はどうか。
身分証明者は持っていない。
おれを入れてくれるか?
日本人詩人、OK! とくるか?
準急「はまゆう」は
土讃線の雨を突いて
一路カーマニョのバリケードに向って進行中である。
「御免」という妙な名前の駅を
いま通過した。


「土讃線」は、四国地方を南北に横断する鉄道。全長 198.7km、香川県多度津を起点に高知を経て窪川 (高知県) にいたります。1889年多度津ー琴平間が讃岐鉄道として開通し、1906年に国有化。その後、琴平と須崎から延長工事が進められて、35年全通しました。 51年に窪川まで延長。阿波池田で徳島線、窪川で土佐くろしお鉄道と連絡。 87年4月に民営化されました。

1965年には、カリブ海のドミニカ共和国で起きたドミニカ内戦が起こっています。同国では、61年、独裁支配を行っていたトルヒーヨが暗殺され、翌年末に行われた自由な選挙ではフアン・ボッシュが大統領に当選。彼は63年に「ボッシュ憲法」とよばれる民主主義的な憲法を制定したほか、キューバと国交を回復するなど自主的外交政策をとりました。

しかし、63年9月、親米派軍人のクーデターによって追放され、レイド・カブラルに率いられる軍事評議会が政権を握ります。これに対して65年4月24日、ボッシュ大統領の復帰を要求してカーマニョ大佐に率いられる軍人が反乱を起こし、軍事評議会を追放しました。軍事評議会派の軍人もこれに対抗して蜂起しましたが、ほぼ4日間の戦闘で敗走させられます。

そのとき、アメリカのジョンソン大統領は海兵隊の派遣を決定し、総計1万数千人の海兵隊を送り込みました(4月28日)。同時に米州機構(OAS)にも派兵を要請し、ブラジルを中心とする米州平和維持軍がドミニカに上陸(5月24日)。これによって形勢は一挙に逆転し、カーマニョ派は守勢にたたされ、米州機構の仲介で停戦が決定しました(8月31日)。その後、カーマニョは大使として外国に退けられるなどアメリカのペースで政治が進められ、翌年6月の大統領選挙では親米派のバラゲールが当選しました。

「大歩危」(おおぼけ)、「小歩危」(こぼけ)は、徳島県西部にある吉野川の峡谷。高知県側から東流してきた吉野川が四国山地を横断する際、北流して横谷をなす約20kmの間をいいます。ボキ、ボケは山間の断崖地の呼称。この両岸は標高1000m前後の山がせまり、かつてはわずかに小路が通じていました。1935年、川岸に沿って開通した土讃線の阿波川口駅から南に5kmで小歩危,さらに4kmで大歩危となりますが,その間がとくに峡谷美をなしています。大歩危は奇岩や怪石が多く、深い淵があって男性的で、小歩危は岩石の露出が少なく、奇岩も小さく女性的といわれます。

*土讃本線は讃岐と土佐、つまり四国の北側と南側を結ぶ国鉄幹線である。県境に大歩危・小歩危の名勝があり、高知へ入る手前に後免=写真、wiki=という駅もある。雨をついて南国土佐の首都高知に向っている「おれ」は、夢のなかでドミニカの首都サントドミンゴへでかけている。そこでは革命軍が米軍とOAS軍(米州機構軍)に取り巻かれて戦っている。最初15行の目のさめるようなすべり出し。後免という地名にかけたウィッティな結び。まさに小野調ともいえるが、もっとも小野調だというべきは、南国土佐行とドミニカ行とのこの重ならない重なりを重ねてみる作品造型だ。しかもこの作品で小野は重なったまま自ら移動している。この移動感覚が「空想」をしっかりと支えている。《安》

2017年8月15日火曜日

北越雪譜

   北越雪譜

野山をかすめて
ま綿を投げたようにふる雪の中。
北越では
きょうも列車が立往生だ。
前に二台とうしろに一台。
三台の機関車が吐く黒煙が
雪空にまっすぐに高く立ちのぼっている。
ふとおれは気がつく。
車内にとじこめられて
さっきからうたたねしていたやつらの服装が
なんともみな物々しく異様なことに。
まるでその風態たら
一世紀ほどむかしの
メキシコかベネズエラかどこか中南米あたりの革命軍の兵隊さながらである。
日本の農民は変じて
いつこんな装束をまとうことになったのか。
白いつば広帽子のあご紐をしめて
銃身の長い旧式鉄砲をたずさえ
肩から弾薬帯をかけわたしているのだ。
陽灼けした顔に八字髭など生やしているやつが多いが
どうもそれはこの地方の風習ではない。
そう云えば
やつらの足もとにころがってる酒壺のかたちも
あまりこのあたりでは見かけないものだ。
中味はどぶろくや焼酎ではなく
なんとかいったな、あれは、テキーラ?
竜舌蘭の葉っぱからしぼった
もっとすごく強烈な酒かもしれない。
してみると
ここは雪におおわれた北越の山中の針葉樹林地帯だということがおかしい。
外はシャボテンなんかが生えている岩石砂漠。
いま照ってる太陽は
灼きつくような熱帯の太陽ということでなければ。
おれはそう思いかける。
いや、夢うつつの中ではまさにそうなってくる。
だが、たぶん雪おろしをしているのだろう。
どこかで
農家の父と子が交わしてる
おれにとっては悲しくもなつかしい日本語が
そのとききこえてきた
 はよ あがって ござい
 おい いまいくすけ んななん さぎ ままけ
 いやの まってんわの
 いま ずっき いくど……


「北越雪譜」(ほくえつせっぷ)=写真、wiki=は、江戸時代後期の越後の自然と生活を描写した書物。著者は越後塩沢の人、鈴木牧之で、山東京山編、山東京水画、初編3巻、2編4巻の計7巻からなります。初編は1837年(天保8)、2編は41年に出版されました。書名のとおり、雪を自然科学的な目からとらえた記述が中心で、日本の科学誌の先駆的存在ともいえます。越後の産業や生活についても記されていて、経済史や民俗学の研究にも貴重な資料となっています。挿絵が多く入れてあるのも特徴です。

牧之がこうした書物を著す動機となったのは、20歳前後の江戸行きにあるといわれています。華やかな江戸の生活に比べ、「雪」という宿命を負わされた故郷の様相を世間に知らせたいという願いからであったようです。牧之はすでに20代後半からこの出版を計画していましたが、頓挫を繰り返し、目的を達成するまでには40年の歳月が費やされました。

この詩集が出された1960年代には、中南米最大の反政府武装組織「コロンビア革命軍(FARC)」も生まれています。農民の自警組織として1960年代初頭に活動を始め、64年には既存体制の打倒を目指して武装闘争を開始しました。麻薬取引や誘拐による身代金を主な資金源とし、最盛期には2万人超の兵力を有するようになりました。91年の大手電機メーカー社員誘拐事件や2001年の日系現地法人役員誘拐・殺害事件など、日本人も被害に遭っています。

*北越の雪のなかで立往生した列車のなかで小野は、乗客である日本の農民が中南米あたりの革命軍の兵隊に変貌するのを見る。窓の外も「雪におおわれた北越の山中の針葉樹林地帯」ではなく、「シャボテンなんかが生えている岩石砂漠」でなければということになる。その夢うつつの中を「悲しくもなつかしい日本語」、まぎれもない日本語がきこえてくるのだ。
 小野は日本の風景と異国の風景とを垂直に重ねあわせるという操作をよくする。「スカンボの花とチョウデの花」では、スカンボの花咲く信州の裏山が、チョウデの花咲くディエンビェンフー盆地の山道と重ねられる。「城砦」では、子供たちが陣地づくりをして遊ぶ大和の山が、猛烈な爆撃に吹っとぶグアーダラマ山脈の岩石と重ねられる。水平的にとうてい重ねられないものを垂直的に重ねあわせることによって、遠近法の測定をしているのだ。これは連想などといえないもっと直接的な操作だ。重ねあわせるのは無理は承知で重ねあわせて、重ねあわせることができるではないかと一瞬おもわせて、さて、本当に重ねあわせるにのには何が足らないか、何が必要か、などという測量を想像力に課しているのだ。この詩集が「現実と相わたることなきユートピヤと受けとられることは、いまこの詩集を出すわたしのむしろのぞむところ」(「あとがき」)という小野の言葉の底には、このようなプログラムの意識がしっかとあるのだと想像する。
 題名の『北越雪譜』は、江戸時代の随筆集で、日本における科学随筆の先駆ともいうべきもので全七冊からなる。著者鈴木牧之(1770-1842)は越後国塩沢の人で質屋と縮布問屋で産をなした。
 安東次男は牧之の「風雅をもつて我国に遊ぶ人、雪中を避けて三夏のころこの地を踏むゆゑ、越路の雪を知らず。然るに越路の雪を言の葉に作る意ゆゑたがふ事ありて我国の心には笑ふべきが多し」と引いて次のように述べている。
「その説くところ、いわゆる花鳥諷詠の情の形骸化をするどく衝いている。小野の詩篇は、現代において鈴木牧之の反風雅を受け継いだらこのような作品になった、と解すれば面白い。そこで編者は作者にただしてみたが、『題名を借りたまでで、詩の主題と直接関係なし』という答えを得た」(『日本の詩歌 第20巻』)
 小野の心は『北越雪譜』の風雅・反風雅にはなかったのだ。小野はシャボテンなんかが生えている岩石砂漠で、雪おろしをしないと生きられない雪国の「悲しくもなつかしい日本語」に耳奪われていたのだ。
 この作品の最後の四行(「はやくあがってきなさい」「おい今いくからおまえたちさきに御飯をたべろ」「いいえ待っているよ」「今じきにいくよ」)は、新潟県北蒲原郡堀越小学校六年加藤敏子の「日がくれても雪おろし」という詩から採ったものである。
 夕方になっても
 父は屋根の上からおりてこない
 こもりしながら出てみると
 一しょうけんめい 雪かきをしていた
 「はよあがって ござい」
 「おい 今いぐすけ んななん さぎ ままけ」
 「いやの まってんわの」
 「今 ずっき いくど」
  雪が どさっ どさっと 屋根からおちてくる
 父のかげが
 雪のところに くろく見えた。
  (『綴方風土記第7巻北陸山陰篇』平凡社)《安》