2017年4月23日日曜日

フアブル自然科学叢書

   フアブル自然科学叢書

かぶとむし
こがねむし
蜜蜂

葡萄虫
毛虫と蝶々
毒虫類
焼けついたよな砂の上を糞玉をころがしてゆく糞虫の話
同じ鉢のぐるりをどうどうめぐりしてゐる行列虫のおろかさ
青虫の腹をちびちび食ひやぶる歩行虫(おさむし)の残忍
蠍の交尾 蜘蛛の食慾
自然へのかぎりなく深い大きな愛をもつて
わかりやすく 平易に
フアブルの語る自然科学
彼の観察はあくまで鋭く
しかも彼の眸はやさしく輝やく
何が正しく何が邪しまであるか
僕らは自然についてそれを見る
人間、僕らの社会の善や悪はなんと小さくかたまり
なんとうすぎたなく汚れてゐることだらう
そしていかに貧しい多くの人々の本能は××によつてねぢまげられてゐることだらう
彼は遠慮深く語り
大胆に暗示する
子供たちの先生
ポール叔父さん
学者や坊主や金持には用のない名だ
僕はおぼえてゐる
「フアブル、おゝ昆虫記の著者」
とチャールススタウンで死を前にしてヴアンゼツチが感激をこめて云つたのを


フランスの博物学者J・H・ファーブルの『昆虫記』は、1879~1910年に出版された全10巻の昆虫観察記録です。副題に「昆虫の本能と習性の研究」とあるように、昆虫の生活の驚嘆すべき本能や習性を冷静に観察し、ときに巧みな実験も試みて明らかにしています。

詩にもある、糞(ふん)を丸めて餌にしたり、そこに卵を産み付けるタマコガネ(フンコロガシ)の習性、ハチの一種ツチスガリの狩猟方法などの記載はとくに有名です。『昆虫記』は日本ではとくに愛読され、和訳も数多いのですが、最初に翻訳・刊行したのは十三郎にも大きな影響を与えたアナーキスト大杉栄(1885-1923)=写真=でした。1922年のことです。

大杉は軍人家庭に育ち、陸軍幼年学校に入りますが、級友との格闘が原因で退学処分となりました。その後、東京外国語学校(東京外国語大学)の仏語科に入学、谷中村事件を機に『平民新聞』の幸徳秋水らを訪ね、社会運動の世界に入ります。大逆事件で幸徳らが処刑されると、その後の運動の指導的な役割を演じます。

「一犯一語」を掲げ、収監のたびに新たな言語を習得し、翻訳・執筆で生活の資を得ていました。1919年、尾行巡査殴打事件で豊多摩監獄収監中に『昆虫記』の英語抄訳版を読み、翻訳を決意します。底本には、同年刊の仏語原書を用い、叢文閣から刊行されました。

訳者序で大杉は、ファーブルによるフンコロガシの観察について「其の徹底的糞虫さ加減!」と感嘆しています。個性と自由を尊重し「生の拡充」を唱えた持論に通じるものを感じたのでしょうか。大杉は、ダーウィンの『種の起原』も訳しています。

*小野が物事に感動するときの水々しい心の動きがよくうかがえる。と同時に、感動の方向を冷静に指示していく小野の手つきはまことに鮮やかである。《安》

2017年4月22日土曜日

留守

   留守

久しぶりにたづねていつたが友はゐなかつた
置手紙でもしやうと思つて裏口からあがつてみた
そこら中新聞や古雑誌が散乱しチヤブ台の上にも電気の傘にもホコリが分厚くつもつてゐた
かたへの壁には砕けたポスターがはつてある
それは昨年の夏太平洋のかなたから日本の同志のもとへ送つてきたあのサツコとヴアンゼツチのための一枚であつた
かれらはもうゐない
雨水か何かがじみこんだのであらう、活字の赤インキが全面に散つてそれが血痕のやうにどす黒くにぢんでゐた


「サツコとヴアンゼツチ」とは、サッコ・ヴァンゼッティ事件の2人。1920年代のアメリカの殺人事件裁判で、政治的でっち上げといわれています。

1920年4月、ボストン市郊外の靴工場を数名の強盗が襲い、2人を殺し大金を奪いました。3週間後、イタリア移民で靴工のニコラ・サッコ(Nicola Sacco、1891-1927)=写真右=と魚行商人のバルトロメオ・ヴァンゼッティ(Bartolomeo Vanzetti、1888-1927)==がまず別件で逮捕され、この事件の犯人とされました。

2人とも無政府主義者、徴兵拒否者で、拳銃を持っていました。またこのころ、司法長官パーマーの赤狩りなど左翼は弾圧され、移民制限が叫ばれていました。翌年5月に裁判が始まり、証言のみで物証不十分のまま、7月に有罪とされます。

それは政治信条を超えた多数の人の抗議を呼び起こし、何度か控訴、再審が請求され、さらに25年、自供者が現れたが認められませんでした。米国内外で有名人も参加する釈放運動が高まり、執行責任者の知事は委員会に諮りましたが、誤審なしとされ、2人は27年8月、電気椅子に送られました。

この事件はその後も長く論じられ、1959年にはボストン司法委員会は再審請求を取り上げ、無罪を証しました。しかし、61年の条痕検査ではサッコの拳銃が犯罪に用いられたとされ、彼を有罪とみる見方もあり、今日まで見解は分かれています。

*1920年アメリカで強盗殺人容疑でイタリヤ移民・無政府主義者であるニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッチが逮捕された。無政府主義・共産主義の弾圧のための逮捕といわれ、世界的に無罪釈放運動が行われた。2人は1927年死刑になった。伊藤新吉はこの作品について次のように述べている。
「まるで空屋のような家の模様をスケッチした作品のようにみえるが、おそらく作者の意図はそこにはない。この乱雑な家からうける荒涼感をひっかかりにして、作者はサッコとヴァンゼッチのこと――それによって触発される階級的連帯感について語ろうとしたのである。それによって2人のイタリア人の死刑をめぐる国際的な抗議運動が、自分の中に生きてあることをいおうとしたのである」。伊藤はまた小野の手法に言及して次のように述べている。
「作者は“自分の中にある”サッコ、ヴァンゼッチ事件を突きはなしてみており、それと同時にこの家がルスなのは、なにかの“事件”があったためかもしれぬことを、その荒涼感をとおして暗示した。それ以上の主観や感想はひとことも語ろうとしないし、その表現手法はリアリスティックといえぬまでも客観的である。この客観的態度――主題をちらっとのぞかせる手法は、はやくから小野十三郎の表現手法の特徴をなしていて、それがプロレタリア系の詩人としてめずらしいのだが、その一方もどかしさを感じさせる」。
「もどかいい」という評言は伊藤の感じ方であって、「もどかしい」かもしれないが、伊藤自身的確に指摘したように、サッコ、ヴァンゼッチ事件への連帯感と、友や自分を取り巻く現実の事件への抵抗とを正確に結びつけるための小野の手法の有効性は明らかである。《安》

2017年4月21日金曜日

鏝と鋏

   鏝と鋏

「××××が生前使つてたものだ」
さう云つて仲間は手にしてゐたものを畳の上に並べた
それは古風な鏝と鋏であつた
鏝は赤く錆びつき、異様に大きい鋏は手垢で黒く光つてゐた。

俺は今さらのやうに彼が女であつたことを想ひ出した
こゝにも彼女が一生を懸けて苦しみ戦つてきた路があつた
叛逆児××フミが女性であつたと云ふことは必ずしも偶然ではなかつたのだ
錆びた鏝を持ちあげてしづかに置いた。


「鏝(こて)」は、形を整えるために用いられる道具。①左官用、②裁縫用、③整髪用などがあります。「鏝と鋏」という組み合わせと「今さらのやうに彼が女であつたことを想ひ出した」という詩句からすると、ここでは「裁縫用」でしょうか。

裁縫用としては、鉄や銅で作られたひしゃく形の容器に炭火を入れて使う火熨斗(ひのし)や小部分に使うこてがあります。絹織物の地直し、絹、毛織物などの手ではつかないきせかけ、縫い目を整えたりすするのに用います。笹の形に似た笹ごては先がとがっているので縫い代を割ったりするのに便利で、丸ごては布の焼べらとしても使われる。

「××フミ」は、大正期のアナキスト、ニヒリズム的な思想家である金子文子(1903-1926)=写真、wiki=のことでしょう。戸籍と違い、実際は1904(明治37)年、横浜生まれ。

両親からも、朝鮮に住む叔母からも温かい扱いを受けず、辛い思いで少女時代を過ごしました。1918(大正7)年に上京。新聞売り、露天商、女中などをして苦学しているとき、朝鮮人朴烈(準植)を知り、朴のアナキズム的な思想や虐げられた民族の生き方に共鳴します。
生活を共にしながら、『太い鮮人』『現社会』などを刊行。1923(大正12)年の関東大震災の際に朴と保護検束され、すぐに大逆罪の容疑者に変更。公判では、天皇制否定の思想を隠さず陳述し、1926(大正15)年3月大審院で朴と共に死刑をいい渡されます。無期懲役に減刑されるものの、宇都宮刑務所栃木支所に送られ、そこで縊死しています。

*「××××」が「××フミ」つあり彼が女であったことを想い出したとき「俺」は彼が男としてふるまわなければならなかった苦しい闘いの日々を強く想い出しているのだ。「錆びた鏝を持ちあげてしづかに置いた」という動作は、だから単なる追憶の動作ではなく、屈折した確認の動作であるところにこの詩の良さがある。××フミとは朴烈事件の朴烈の愛人金子文子である。大正12年天皇暗殺を企ててともに検挙され文子は獄中で自殺した。《安》

2017年4月20日木曜日

横はつてゐるもの

   横はつてゐるもの

夜明だ
野の端まで霜が降りてゐる、が土はまだ棺の蓋だ
霜柱の下に無限大の燐のやうな蒼白い顔が横はつてゐる
「地を蹴つて起てよ!」
奴は全地上にのさばり反つてゐるので
どこが手だか足だかわからない
力のいれどころに困つてゐるのだ
奴は起たう起たうと藻掻き苦しみ
顰めつ面をし
身をゆすぶり
空に向つて唾を吐きかけたりしてゐる

棒つ切だつて空高く舞ひ上るのだ!


当時、十三郎が身を投じていた「アナキズム(anarchism)」は、第二次世界大戦前の日本では無政府主義と訳され、アナキストは直接行動やテロリズムを主張する過激思想の持ち主として恐れられていました。

しかし本来は、語源的にギリシア語の「α’ναρχο(アナルコス)」つまり「支配者がいない」ということばに由来し、権力的支配や国家、政府のような権力機関の存在を極端に嫌い、人間の自由に最高の価値を置く思想として位置づけられています。

アナキズムの思想が労働・社会運動、革命運動のなかで世間の注目を浴びるようになったのは、19世紀後半以降の社会主義とくにマルクス主義との対抗関係においてです。

近代資本主義の発展は、人間の間に経済的、社会的不平等をもたらし、この格差を維持するために自由の拡大も抑圧されました。このため19世紀には、国民の大半を占める労働者や農民の地位を改善することを目ざし、さまざまな社会主義思想が登場しました。

アナキズムはこうした思想状況のなかで登場した社会主義思想の一つです。マルクス主義者とアナキストは激しく対立したものの、ときに両派は、専制支配の打倒や反ファシズムのために共同して闘うこともありました。

大正期の日本でも、いわゆるアナ(大杉栄)・ボル(堺利彦、山川均)論争が起こり、「パリ・コミューン」の労働者たちの中にはプルードン主義者がたくさんいたし、1936年に始まったスペイン内戦の初期にはボリシェビキとアナキストとの共同行動もみられました。

こうした社会運動の中に投じた若き詩人もやがて、何が良くて、何が悪いのか、何をどうすることに意味があるのか、カオスに迷い込んで行く場のないところにいらだつ時期もあったのでしょう。

まさに「どこが手だか足だかわからない/力のいれどころに困つてゐる/起たう起たうと藻掻き苦しみ/顰めつ面をし/身をゆすぶり/空に向つて唾を吐きかけたりしてゐる」のです。

*この異様なイメージにとりつかれたとき、これまでになく小野の表情はかげっているようにおもえる。「棒つ切だつて空高く舞ひ上るのだ!」という叫びは威勢がいいようで、どこかいらだちの調子が含まれている。小野がここで言葉で押えようとしたものはきっと小野自身あつかいかねるもの、単一でないものであったと私にはおもわれる。つまり労働者階級とか味方とか一概にいってしまえないもの、共感と反感とをないまぜた口調でしか語れないもの(部分であって全体、他者であって自己であるもの)ではないだろうか。《安》

2017年4月19日水曜日

反古

   反古

これを最後の手紙にしたい
少なくとも君と俺との間ではね
俺は俺の筆不精をすまないと思つてゐる
だが友だち! 俺たちの愛や友情について
いつまでもくどくど書きたてることに熱中するよりも
やらなければならない十倍も二十倍ものことが眼の前にあるのだ
あらゆる場合のあらゆる言葉が俺たちの親愛の表示でなければならないなんてまつたく不生産的な話ではないか
君も俺もこの感じ易い泣虫の心臓にブレーキをかけやう、グイと
そして俺たちは希望に燃えて俺たちの一歩前を歩いてゆかう
俺は君を忘れてゐられる
俺はしぶとくがまんできる
病気するな
俺たちの力でどうにもならぬのはこいつだけだ。


『学研全訳古語辞典』によれば、「反古」(ほご、ほうご、ほぐ)とは、
①書画などをかいて不用となった紙。書き損じの紙。ほご紙。源氏物語(浮舟)に「むつかしきほぐなど破(や)りて」
=(死後まで残しておいては)めんどうな書き損じの手紙類などを破って。
②無駄。不用になったもの。仮名忠臣蔵に「ほぐにはならぬこの金。一味徒党の御用金」=無駄にはならないこのお金。同志の仲間の御用金にと。
とあります。

*「やくそく」と「反古」は、いずれも、余分なものを一切切り捨てて戦おうという叫びであるが、どこか客観的でどこか明るい感じがする。《安》

2017年4月18日火曜日

やくそく

   やくそく

握手なら手間は取れまい
だが帽子を脱いでまたかぶると云ふやうなしぐさはすでにまだるつこい
ふり向きもしないでいつてしまふ奴は同志だ
いつまでも窓から首なんか出してゐる奴は敵だ
言葉が此の際何になる
兄弟と名のつく奴は世界の何処にゐたつて図太く笑つて生きて戦つてゆける奴だ
まるで機械ぢやないかなんて泣言は通らない
長つたらしい物の名なんかは以後すべてきりつとした略語で呼ぶべきだ
とにかく俺たちはムダな時間を持たなくなつた
今に見ろ、俺たちの約束を握手を省略する
そして俺たちは一層親密になる
盤石の工事がもつとどんどん積極的に進むやうになる。


「帽子を脱いでまたかぶると云ふやうなしぐさはすでにまだるつこい」「長つたらしい物の名なんかは以後すべてきりつとした略語で呼ぶべきだ」などと、余分なものはみんなはぎ取って闘おうと呼びかけています。

「同志」に「敵」という言葉は、最近はあまり耳にしませんが、この詩の同志は、社会主義革命という志を同じくする革命同志のことを言っているのでしょう。

フランス革命(1789-99)=写真=のとき、「同志」にあたる「Camarade」という言葉が、それまでの monsieur (我が主)や madame(我が婦人)に代わった革命勢力により使われはじめたそうです。

19世紀中ごろからは、社会主義運動で仲間を呼ぶ言葉としてドイツ語の Kamerad 、英語の Comradeなど、ヨーロッパ各地でで同志に当たる言葉が使われ始めました。

ロシアでも、別語源の「товарищ」 が使われ、1917年にソビエト連邦成立後、普及します。中国では、孫文が同志 (トンチー) という言葉を使い始めたとされているそうです。

1949年の中華人民共和国成立後も、中国国内で広く使われましたが、台湾で同性愛者間における呼びかけの言葉として使われるようになり、1990年代以降、中国国内でも古参の共産党員以外はあまり用いられなったとか。

2017年4月17日月曜日

手帳から

   手帳から

病気にならうと
ときに気持がどう変らうとも
俺は帰るべきひとりの巣をもたない
何故なら俺はそこに無数の針を殖えつけてゐるからだ
生活の陰影を隈なく曝いてしまう強烈な光り!
そこに俺のゆく路が照らしだされる
愛するが故に憎みぬく
そこに鍛えらるべき俺の精神と肉体がある

何を勇敢と呼び何を卑怯と呼ぶか俺は知らない
たゞ俺は自らの退路を断つとき最もよく進み得ると云ふことを知つてゐる


退却する手段や道筋をなくすこと、どうやっても後に退けない状況にすることなどを意味する表現。

1920(大正9)年4月、大阪から上京した18歳の十三郎は、本郷界隈を転々とし、東洋大学に入学しましたが8カ月ほどで退学します。退学後も、郷里から月々多額の仕送りを受けて生活していました。

1923(大正12)年には、詩誌『赤と黒』が発刊。萩原恭次郎、岡本潤、壷井繁治、川崎長太郎らと交際を結びます。

白山上の電車通りにあった本屋「南天堂」の二階の喫茶酒場に夕方になると集まって、酒と議論と歌で気勢をあげ、大乱闘のあげく十三郎が二階の窓から外に放り出されることもあったとか。

バクーニン=写真、大杉栄などアナーキズムに関する内外の書を読みふけっていたのもこのころです。「退路を断つ」というのは、若い運動家たちがいかにも口にしそうな物言いです。

*自分に対する反逆を「退路を断つ」という決意を軸として捕えたものである。いずれも語勢がいつになく断言的であるのが、この場合かえって心情的なリアリティを感じさせる。《安》

2017年4月16日日曜日

家系

   家系

俺はある日自分に対して決然として叛逆するものがあるのを知つた
母につながり、兄弟につながり、そして遠いわが家の先祖にまでつながつてゐる俺の血がかたまりとまるのがわかつた
今日の生活の動きを沮むさまざまな伝統や卑屈な道徳で混濁した黒いタールのやうな血であつた
俺は死に俺は生れた
俺は母や兄弟の責めるやうな眼と対峙した
沸々として沸き出づる新らしい血のぬくもりを胸に感じた
あゝ、この血のためにむしろ彼等の敵となり生き得る俺は万歳だ


家が超世代的に存在することが前提とされる社会では、家の社会的維持のために、その系譜が重要視されました。

最初の家長夫婦は後継者たるべき者を跡取りと決め、これに配偶者を入れて、その家が何世代にもわたって継承され、永続することを願いました。

家は家長によって統括され、そこでは家名や家産、家の祭祀を含む家行事が継承されます。また、他の家との関連のなかで相互に家系を重視することで、家の秩序や社会秩序が維持され、身分関係を顕在化させました。

跡取りとされなかった子は、他家へ婚出するか養取されるかして、生家の家系から他の家の家系へ所属がえするか、生家を本家とし、その本家に従属し依存する分家を創設してもらうかしました。

跡取りでない息子に嫁をとって分家させるだけでなく娘に婿をとって分家させることもあり、長年奉公した住込み奉公人に嫁をとって分家させることもありました。

本家から分岐する形で創られたこれらの分家も、本家と同様に世代を超えて継承されました。こうした分家の家系は、分家の初代、さらに本家の家系からの枝分かれとして位置づけられました。

十三郎は、まだまだ、こうした「家系」が重きをなしている時代に生きていたのです。

*自分に対する反逆を家系という軸で捕えたものである。《安》


2017年4月15日土曜日

いたるところの訣別

   いたるところの訣別

俺は友が友にそむき去る日を見た
相手の腕は折れ額に血潮のにじみ出るのを見た
俺は又一枚の表札が剥がれ一台のトラツクの走り去るのを見た
トラツクの積み込まれた夜具や鏡台や七輪を見た
    さやうなら!
 がつかりしちや駄目
俺は彼女たちの明るい声を聞いた
俺は彼女たちの勇ましい沈黙と微笑を見た
そして俺は見た
一切の生温かきもの、卑弱なるもの、じめじめしたるもののいくらかがこの世界から美しく掃き清められてゆくのを

友達とは何か、女とは何か、家庭とは何か
家庭を破壊するとは何か
友達を抑へ虐殺するとは何か
俺たちはそれをやつた
そして俺たちはそれを知つた


十三郎は、南天堂で知り合った萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤らの詩誌『赤と黒』に刺激を受けてアナーキズム詩運動に入りましたる。アナーキズムが社会運動、革命運動のなかで世間の注目を浴びるようになったのは、マルクス主義との対抗関係においてでした。

17~18世紀の市民革命の結果生まれた近代社会は、人間の自由を保障するという面では著しい前進を示したものの、その後の近代資本主義の発展は、人間の間に経済的、社会的不平等をもたらし、この格差を維持するために自由の拡大もまた抑圧されることになります。

このため19世紀に入ると、国民の大半を占める労働者や農民の地位を改善することを目ざしたさまざまな社会主義思想が登場しました。アナーキズムはこうした思想状況のなかで登場した、社会主義思想の一つとみることができます。

ただアナキズムは、当時革命思想として労働者階級の間で指導的地位を確立しつつあったマルクス主義と、その理想社会のイメージやそれを実現する方法をめぐって対立関係にたつことになります。マルクス主義者とアナーキストは、歴史上、激しく対立はしたが、ときには、両派は専制支配の打倒や反ファシズムのために共同して闘うこともありました。

マルクスはアナーキズムの代表的思想家プルードンの革命理論を厳しく批判し、第一インターナショナルのなかではマルクス派とバクーニン派が路線問題をめぐって激しく対立しました。大正期の日本でも、いわゆるアナ(大杉栄)・ボル(堺利彦、山川均)論争がおこっています。

*書かれていることは萩原恭次郎の「断片12」で書いたものと同じ事柄らしい。
  昨日の友も次第々々に別れて今日は敵となる
  我々は益々少数者となり益々多数者の意志する所に近づかうとする
  吠えてゐるものにも 騒ぐ者にも 高い所にゐる者にも
  静かなる無言の訣別をする
 アナーキズムとマルキシズムの思想的対立から生まれた離合集散の痛みをえがきながらも小野は怒号もしなければ自虐に走りもしない。「彼女たちの勇ましい沈黙と微笑を見た」と書くことができるのだ。なぜか。そのときの激情にふれまわされずに、つまり現実の反映にとどまることなく、現実を超える契機を表現を通して産み出せたのは、他でもない、敵はおれの内にいるという直観、変えなければならぬもの・のりこえなければならぬものはおれの内にこそあるのだという直感が、当時すでに小野を捕えていたからにちがいない。
「私たちの感情の中には、無意識的なものに由来する非常に脆いもの、ちょっとした衝動で、感傷となり詠嘆となって、ずるずるとそのまま敵の方にくずれてしまうたよりない不安定な要素が残っている。中野重治は、それを自分の生活や心の持ち方の問題としてたえず意識したように思われる。世の常のアバンギャルドや政治的詩人のように、自分は、庶民感情の中に残存している古いものや弱いものからきれいさっぱり脱け出していると思うような自負はなかった」(『日本詩人全集25巻』「中野重治・人と作品」)
 小野がこのように書くとき、それは中野の詩の持っている抒情の質に関して述べようとしているわけだが、確信をもって小野に述べさせているその根は「民衆とともにあることは死ぬまで民衆の中にあるものを軽蔑しつづけていることだ。民衆とはだれでもない俺だと言えることだ」という『詩論』208の言葉と等しい。
続く次の文章で小野はむしろ自己確認をしているようにさえおもえるのだ。
「弱さや脆さや古さも、それがなお現実に消滅せずして存在する理由が自覚されているかぎり、実にその弱さや脆さや古さの中からさえも、人間の感性に革命を生ぜしめ、それを新しく秩序づける契機を見出すことができる」(「中野重治・人と作品」)
 後年小野が「短歌的抒情の否定」を主張したとき、歌壇歌人への攻撃としか受けとれない人々が多かったが、小野の真意はもちろん、「わたし自身の内部にある短歌」にあることは論を待たない。《安》

2017年4月14日金曜日

機関車に

   機関車に

その下にあるものの血を沸きたゝせ
それにたち向ふものの眼を射すくめる俺たちの仲間
機関車は休息のうちにあつていさゝかも緊張の度をゆるめず
夜ふけて炭水車に水を汲み入れ 石炭を搭載し
懐中電灯もて組織のすみずみを照明し
浮いたねぢの頭をしめ ピストンに油をそゝぎ
つねに巨大なる八つの大働輪を鋼鉄の路において明日の用意を怠らず
前燈を消して
ひとり夜の中にある


「機関車」は、客車、貨車などを牽引するための鉄道車両で、自走できる原動機を備え、旅客、貨物などを積載する設備をもたないものをいいます。原動機の種類によって、蒸気機関車、電気機関車、ディーゼル機関車などがあります。

日本の蒸気機関車は、1872(明治5)年の新橋と横浜間の開業に先だって、鉄道の技術とともにイギリスから輸入したタンク機関車10両に始まります。電気機関車の始まりは、1912(明治45)年に信越線の横川―軽井沢間の碓氷峠用のアプト式鉄道区間に採用したもので、ドイツから輸入した小型の10000形だそうです。

*小野には機関車にたいする好みが強くあり、『重油富士』の「不時停車」をはじめとしてたくさんの作品がある。戦後、能登秀夫の手びきで安西冬衛・竹中郁とあこがれの機関車D57に乗ったときのことを書いた一文が『多頭の蛇』(日本未来派発行所)にある。

 この作品を中野重治の「機関車」「きくわん車」と比べてみると面白い。中野が「輝く軌道の上を全き統制のうちに驀進するもの」「ま夜なかでもはしるきくわん車/大切なきくわん車」と動的、意味的に捕えているのに対して、小野が「前燈を消して/ひとり夜の中にある」と静的、事物的に捕えている。動を含んだ静を好む小野らしい結句である。中野にしても小野にしても戦いの中心に立つ「部分であって全体であるもの」を歌っていることに変りはない。《安》

2017年4月13日木曜日

ゆれる

   ゆれる

近くにある瓦屋根をみてゐたら
屋根の向側に
むらむらむらむらと樹葉が沸いてあがつた
べたべた青光る樹葉があらわれた
ばつさ、ばつさ、ゆれはじめた
ばつさ、ばつさ、ばつさ、ばつさ
春の木が枝が梢がゆれはじめた


「樹葉」すなわち樹木の葉は、機能的には葉は光合成のための器官です。扁平で広く、葉脈が枝分かれして張り巡らされているのは、太陽の光を効率よく吸収し、ガス交換することができるための適応と考えられています。

太陽光を効率よく浴びるためには、葉っぱと葉っぱが重なって影になるようなことがなるべく無いほうがいいでしょう。そのため、葉っぱは一定の法則性をもって生えているようです。

0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144,……と、どの項もその直前の2つの項の和になっているのをフィボナッチ数列といいます。葉のつき方は、美しさの定番である黄金比にもかかわるこの数列と関連しているのです。

このように、まわりの環境との臨界点に位置する「生命」である樹葉が、「むらむらむらむらと」沸き上がって「ばつさ、ばつさ、ゆれ」ているのです。

*ここには萩原朔太郎とは違った客体化された感情がある。おかしなことだが、私はこの詩を読む時、小野が萩原恭次郎に初めて会った日の椎の木の若葉を連想する。小野の回想記もそしてこの作品も、激しいやさしさが溢れているように私にはおもわれる。《安》

2017年4月12日水曜日

思想に

   思想に

僕の頭蓋骨の中には
煤けた共同長屋が列んでゐる
そこには実にありとあらゆる思想が
隣りあひ向ひあつて棲んでゐる
やつらは各々孤独をまもつて
朝夕の挨拶すらロクに交さない
奴らは揃ひも揃つて働きのない怠け者で
その日その日の糧にも窮してゐる
うちつづく栄養不良に見る影もなく瘦せ衰えてゐる
こゝには弱肉強食も相互扶助もないんだ
ひとりを隔離しひとり存在してゐる
秋がきた
冬も近い
時々奴らは家を空にして
何処かへ出てゆく
冬眠の仕度にかゝるんだろう
が、獲物を仕入れて帰つてくる奴もあれば
そのまゝ永久に姿を晒してしまふのもある
空家はすぐに塞つてしまふのだ
入れ代りに変つた野郎がいづこからともなくやつてきて
一言の挨拶もなくその家の主人におさかりかへる
そして自分の周囲に
以前に倍する高い堅牢な城壁を築いてしまふ
あゝ
その一つ一つの巣に
これらの生気の無い蒼ざめた思想の一つ一つの形骸を眠らせて
僕の頭蓋骨も又冬に突き入る


「長屋」は、戦国時代、山城の麓に建てられた根小屋に始まるそうです。雑兵の休泊所で、一単位の間口九尺(2.7メートル)、奥行二間(3.6メートル)という最小の居住空間の連続です。地方武士が都会へ出たとき、家臣の泊まる宿舎もこの形式で、江戸時代、藩邸にたくさんみられました。

表門の左右から塀の内側にぐるりと建て、主屋を取り巻くので四方長屋です。往来に面するところは二階建てで、上下五室ほどあり中級以上の武士が住みました。他は中長屋といい、手狭で採光も悪く、士分以下の軽輩の住居だったそうです。

人口が密集した江戸時代には、庶民住宅にも長屋形式の住宅が発達しました。表通りのものが「表長屋」で、裏通りや路地にあるものが「裏長屋」。通常、長屋といえば裏長屋で、裏店とも呼びました。表通りの木戸を入ると、狭い路地を挟んで両側に長屋が建ちます。六軒長屋が多く、一軒の規模は、九尺に二間、または二間半でした。多くは二階建てで、上下二室からなり、台所は共同井戸の近く、戸口の土間にありました。

戦前も、都市住居としては長屋が一般的でした。各住戸内に階段がある2階建て長屋も増え、各戸にトイレも造られるようになりました。現在でも、東京・月島、旧炭坑地域などあるほか、兵庫県の加古川日本毛織社宅建築群にその典型が残されています。

この詩の当時、長屋の「思想家」たちはどんなふうに暮らしていたのか。萩原恭次郎に感じて、十三郎は次のように記しています。
「はじめて、千駄木にあった彼の下宿をたずねていったとき、二階に上って、障子の外から『ハギワラ君』と声をかけると、『ああちょっと』とあわてた様子で彼が出てきた。真昼間だったが、まだ床はしきっ放しで、掛布団のはしから、とっさに顔をかくしたらしい女の寝みだれ髪の毛が見えた。なんともてれくさい初対面の仕方だったが、そのとき、明け放された窓の向うに見えた六月の太陽にかがやく椎の木の若葉を、わたしはふしぎにいつまでもハッキリと想い出すことができる」(『奇妙な本棚』)

2017年4月11日火曜日

夢売る力をうしなった者は生きてゐられない

   夢売る力をうしなった者は生きてゐられない

天心に凭れかかつた太陽がある
火葬場のやうな黒い油煙をあげて
じゆうじゆうじゆう
軒並に今日も又鮭を焼く場末の夕暮
骨でもしやぶれる間は
猫の子一匹だつてくたばらないぞ
夢は昨日からすでに明日に突走つてゐる
ああ 今日一日なんか物の数にも入らないんだ

孤独!

この夕景を強く生きやう


「夢売る力をうしなった者は生きてゐられない」という長いタイトルがついています。

「天心」は、空のまんなか。空の中心。蕪村に「月天心貧しき町を通りけり」という有名な句があります。

近年は、火葬場で煙突が見られることはほとんどなくなりました。1970年代後半から燃料が灯油化・ガス化されたうえ、再燃焼処理の普及で排煙の透明化や臭気の除去が進んだからです。

しかし、それまでは、火葬場の高い煙突から「黒い油煙」があがるのが、「じゆうじゆうじゆう/軒並に今日も又鮭を焼く」煙の比喩に用いられています。

小野はこの頃のことについて、次のように回想しています。

「大正十二年に私が大阪から上京しまして、最初にめぐり合わせた詩の仲間が、この萩原恭次郎と岡本潤、壺井繁治の『赤と黒』の三人の詩人であったことも何だか偶然だとは思えないのであります。

しかし、その頃の私の詩は、かれらの詩にくらべるとまことにおとなしいものでありまして、いま読み返して見ますと、ようやく前記の『半分開いた窓』の後半に至って、この時代の疾風怒濤の余波が押しよせている感じであります。

私は若い頃にアナトール・フランスの『エピキュラスの園』を愛読しました。この詩集の第二部の扉に掲げてある『出来上った幸福を受けるのは絞縄に頚をかけるようなものだ』という言葉はそれからの引用で、私はそれによって自分の反抗の姿勢を示したつもりだったのでしょう。

一寸微笑ましくもあり、悲しくもあります。反抗や怒りが外に向うと同時に、内に向っても爆発しているのは、この時代の革命的な抒情に見る共通の特色でありますが、私の詩にもこの自虐的な要素が濃厚でした。

私の場合は、それは内部の敵に向って戦いを挑むというよりも、むしろ当時生活的にも環境的にも比較的恵まれていた私の、詩人の良心に対する極めて感傷的なコンプレックスに原因していたようです」(「激動から秩序へ」)

2017年4月10日月曜日

野鴨

   野鴨

僕はあの蘆間から
水上の野鴨を覗う眼が好きだ
きやつの眼が大好きだ
片方の眼をほとんどとぢて
右の腕をウンとつつぱつて
引金にからみついた白い指尖をかすかにふるわして
それから蘆の葉にそつと触れる
斜につき出た細い銃身
あいつの黒い眼も好きだ

僕はあの赤い野鴨も好きだ
やつの眼ときてはすてきだもの
そして僕は空の眼が好きだ
あの冷たい凝視が
野鴨を悲しむのか
僕は僕の眼を憎む
この涙ぐんだ僕の眼だけを憎む

覗ふ眼 銃口の眼 鴨の眼 空の眼
静かに集ひ
鴨を射つ


「野鴨」は、野生のカモ。カモは全長35~60センチの中・小型の水禽類。ふつう雄は雌より大型で、羽色が特殊化し、美飾羽をもつものもあるが、雌は地味な羽色で声も「ガ」あるいは「ゲ」音系だそうです。

沿岸海域から内陸の河川、湖沼、湿地、さらには水域から遠くない草地や林などに生息。カモには、数キロ先を見通すような視力、人よりずっと広い視野角があるとか。

「野鴨」というと、ノルウェーの劇作家 H.J.イプセンの戯曲が有名です。虚偽のうえに築かれた三代にわたるエクダル家が、無謀な一理想家による娘の出生の秘密の暴露によって動揺し、娘の自殺によって崩壊していきます。

*「覗ふ眼」「銃口の眼」「鴨の眼」「空の眼」この四つの眼を「僕」は好きだという。そして「僕の眼」だけを「僕」は憎む。「僕の眼」は涙ぐんでいるのだ。「レンズの中」という作品では、双眼鏡は狂った風景をみせてくれる「大きな眼」であって、その眼を頼りにあの作品の世界は始まった。だがここではどうか。涙ぐむ「僕の眼」は頼れないのだ。「射つ・射たれる」という事件を成立させるのは「僕の眼」以外の四つの眼だ。涙ぐんだ眼は事件にかかわりあえない。《安》

2017年4月9日日曜日

   蘆

君はあの蘆を見たことがあるか
君はおそらく見たこがないであらう
蘆といふやつは
河をへめぐるヴガボンド
黄色ろくつて、黒くつて
鋭く、長く
静かに簇生してゐるが
風が吹くと
閃めいて 鳴つて
響き渡つて
僕の女を凌辱して気狂にして
又、つ、つ、つ、と生えてゐるやつだ
この蘆を見たことがあるか


「ヴガボンド」は、「vagabond」。放浪者、無宿人といった意味です。古来、遊牧民は生活のために放浪を繰り返してきたし、若者たちはしばしば人生の意味を求めて放浪を重ねます。

パスカルは『パンセ』の中に、有名な「人間は考える蘆である」とい言葉を残しています。人間はひ弱な一本の蘆にすぎないが、思考することのできる蘆なのだ、というのです。

ここでは「蘆といふやつは/河をへめぐるヴガボンド」といっています。「へめぐる(経巡る)」は、あちこちをまわって歩くこと。「蘆」は、川辺をめぐる放浪者だというのです。

「静かに簇生してゐるが/風が吹くと/閃めいて 鳴つて/響き渡」る。そして「僕の女を凌辱して気狂にして/又、つ、つ、つ、と生えてゐる」のです。

『万葉集』に「海原のゆたけき見つつ葦が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ」というの大伴家持の歌があります。家持は、難波で防人の検校に関わり、防人たちとの出会いをしています。

万葉の時代には、大阪湾が内陸までのびて湿地帯が広がり、蘆が群落を作っていました。海原のゆたかな風景を見ながら、ああ、この地で何年も過ごしてしまいそうだ、過ごしたいものだ、というのです。「葦」には、各地から集まってくる防人と重なるところもあったのかもしれません。

*その凝縮性と能動性のゆえにきわだってすぐれた作品となっている。この作品の意図は前二作を読んできた読者には自明であろう。「或恐怖」においてはいわば熱病のごとき妄想をとってあらわれ、「情人」においては鈍感で疲れきった「ぼく」の感覚を通して捕えられていた朱い蘆が、この作品においては蘆自体としてあらわれるもの。その困難な作業を、小野はこの作品で「僕の女を凌辱して気狂にして」という見事な一行で、やっとなしとげている。極言すれば「ぼくの女を」の「を」にかかっていたとさえいえよう。《安》

2017年4月8日土曜日

情人

   情人

夕暮 その辺には朱い蘆が簇生してゐた
河岸の草径に
ぼくはゐた
もう話もなくなつてしまつた接吻もし飽きた女の身体をぎこちなくひつぱり歩いてゐた
二人ともおそろしく鈍感だつた
欠伸は出ても何も話さなかつた
口笛が頓狂に鳴つてすぐやんだ
長い径だつた
女は犬のやうにうなだれてついてきた
嘘つつき!
とも叫ばなかつた
だから噛みつきもしなかつたのだ
女はただ疲れた顔をしてゐたきりだ
二人ともおそろしく鈍感だつた
それでもぼくたちはも一度接吻した
なんのためだかわからなかつた
ずいぶん変なかつこうだ
それからお互に他方を向ひて歩いた
河がだんだん遠くなつた
ぼくはたうたう笑つてゐた
ぼくの眼には朱い蘆が簇生してゐた。


ここにも「蘆」が出てきます。「或恐怖」では「赤い蘆」でしたが、情人と二人でいるここには「朱い蘆」が簇生しています。

「簇生(そうせい)」は、草木などが、群がってはえること。ヨシは水辺で最も大きい草本植物。1㎡あたり1kg程度と森林とあまり変わらない重さをもち、光合成による酸素の生成を行っています。

ヨシ原では、土中・水中から多くのチッソやリンを吸い上げて大きく成長するため、水中の富栄養化によるアオコの発生などを抑える水質浄化作用があります。

また、地下にネット状の地下茎を張り巡らせるため、土壌を強化し波風や水圧による河川敷の侵食を防ぐ働きもするそうです。

ヨシ原は、「話もなくなつてしまつた接吻もし飽きた」「おそろしく鈍感」な二人を囲み、支えるのにもってこいの場を提供しているようにも思われます。

*青春の情熱と倦怠が基調。おそろしく鈍感になっている恋人たちを「その辺には朱い蘆が簇生してゐた」という第一行目と「ぼくの眼には朱い蘆が簇生してゐた」という最終行とがはさみこんでいるのだ。恋人たちの姿態をたくみに書きこんでいるが、この作品の意図はむしろ第一行から最終行へのこの移行にある。《安》

2017年4月7日金曜日

或恐怖

   或恐怖

いくらゐつてもゐつても赤い蘆である
こんな路をゆくのはよくない
陽も落ちさうで弱りました
こんな路をゆくのはよくない
陽も赤けりや路も赤い
ぼくの背中はむづがゆい
みんなが熱病のやうに赤い
頭脳も赤い
頭脳も赤い
呼吸も赤い
嫌な赤さだ
赤いものは赤い
赤いものは赤い
笑つても赤い
こんな路をゆくのはよくない
赤けりや赤くなれ
赤けりや赤くなれ


イネ科の大形多年草の「蘆」は、アシともヨシとも読みます。アシという名は「悪し」に通じるので、その対語として「善し」となったといわれます。この作品のトーンからすると「アシ」のほうがいいかもしれません。

稈は直立し高さ1~3メートル、葉は下垂し、大形で長披針形、長さ約50センチメートル。世界の暖帯から亜寒帯にかけて分布、日本では全土の水辺に群生します。

若芽は食用され、稈は「よしず」をつくります。記紀など日本神話で「葦原の中つ国」が日本の呼称として用いられました。『万葉集』では難波の景物として知られています。

「赤い」ことの形容に、腸チフス、肺炎、発疹チフス、天然痘など高熱のでる病気の総称である「熱病」のやうに、という比喩を用いています。

*「ぼく」は赤い蘆にとりかこまれて、なにもかもが熱病のように赤い。赤い蘆に集約される青春特有の情熱と恐怖が生々しい現実感を与えている。《安》

2017年4月6日木曜日

断崖

   断崖

断崖の無い風景ほど怠屈なものはない

僕は生活に断崖を要求する
僕の眼は樹木や丘や水には飽きつぽい
だが断崖には疲れない
断崖はあの 空 空からすべりおちたのだ

断崖!
かつて彼等はその風貌を見て昏倒した
僕は 今
断崖の無い風景に窒息する


Wikipediaによると、垂直もしくは垂直に近い傾斜の地形である「崖」(がけ、Cliff)のうち、特に切り立った規模の大きな崖が「断崖」。

日本の宅地造成規制法施行令では「地表面が水平面に対し30度を超える角度をなす土地」が崖とされていて、世界で最も高い崖は、高さ1010mもあるハワイのモロカイ島・カラウパパの海食崖だそうです。

十三郎は自著『奇妙な本棚』の中で「わたしにとって、詩というものは、非日常的な不安定な危険な状態や恐怖感がそれなりに一つ秩序のごときものをかもしだすとき、そこに生れるある精神的緊張感、それと大へん近いようなものなのである」といっています。

「樹木や丘や水には飽きつぽい」「僕の眼」にあっても「断崖には疲れない」といいます。疲れないどころか「断崖の無い風景に窒息する」とまでいいうのです。十三郎の詩論を端的に表現しているようにも思えます。

2017年4月5日水曜日

レンズの中

   レンズの中

空では
ひばりの奴が光つた
河沿の小径を空ばかりみつめながら
晴衣をつけたうら若い女があいてゐたが
あぶないツ! と思ふまに
ざぶりと おつこちた
発狂でもしたやうな顔つきで
ずぶぬれの裾をつまみあげて
やうやく河の中からおきあがつたが
それから……
ぼくが木橋の上から
双眼鏡でをれを見てゐる
大きな眼をもつたぼくが
笑ひながらむさぼるやうに女の動作を見てゐる
春めいた広汎な風景の中で
やつぱり平々凡々な郊外散策地で
たつた一つこのレンズの中がすこしばかり狂つてゐる
さあそこで
ぼくはこの女をもつともつと笑つてやらう


望遠鏡は、肉眼で観察するには正立像が望ましいので、倒立像を正立像にする素子を対物レンズと接眼レンズの間に挿入しています。また、持ち運びができる小型にするため、光路を折り返して鏡筒の長さを短くしています。

「双眼鏡」はガリレイ式望遠鏡と同じく凸の対物レンズと凹の接眼レンズを組み合わせた低倍率(2〜6倍)のものと、対物レンズと接眼レンズの双方に凸レンズの作用をするレンズを用い、さらに内部に全反射プリズムを組みこんだ高倍率(4〜15倍)のプリズム双眼鏡があります。

現在の主流となっているのはプリズム双眼鏡で、その誕生は双眼鏡が普及しだした19世紀に入ってからのことです。イタリアのポロにより、原型が開発されました。

日本に双眼鏡が登場するのは20世紀に入ってから。1911年、藤井レンズ製造所によって日本で最初の双眼鏡が開発され、1917年には同製造所の技術がニコンに引き継がれました。第二次世界大戦中に陸海軍の必要を満たすため、飛躍的に進歩しました。

白昼使用する双眼鏡では対物レンズの直径は3ミリメートル×倍率ですが、夕暮れ時に使用する双眼鏡では6ミリメートル×倍率の直径が必要であるそうです。外界の明るさが変化すると、肉眼の瞳孔径が3~6ミリメートルの範囲で変化するためです。

双眼鏡の外の風景は平々凡々何ごとも起りはしない郊外散策地であるが、双眼鏡の中の風景は「すこしばかり狂っている」のだ。「ぼく」は双眼鏡にしがみつき、むさぼるようにみつづける。そしてやはり「笑う」のだ。《安》

2017年4月4日火曜日

野の楽隊

   野の楽隊

ケームリモミヱズ…………クモモナク
太鼓ばかり嫌にひびかせて
四五人の赤い楽隊が街道をゆく
はしやいだ小供や犬なんかもゐく
街道に沿ふた細いあぜみちでは
カーキの軍服をてらてらさした在郷軍人が
口笛で合奏しながら歩いてゐる
少し離れた丘の草路をふんでゐくのは
ぼくだ
くすくす笑つてゐるのはぼくだ
あの楽隊を聞いてゐると
なんだかなまあたゝかな情熱が
胸もとにぞくぞくはひあがつてきて
くすぐつたくなる
ぼくはいよいよ笑ひだした
ぼくは自分をどなりつけた
しかしぼくの歩調は
あの太鼓の歌にあつてゐる
いくら乱さうと乱さうとしても
いくらもがいてももがいても太鼓につりこまれる
ぼくはついにたまらくなつて兎のやうに
黄色い草むらにもぐりこんで
長い耳をたゝんだ
そしてまたこんどは
ゲラゲラと笑ひを吐きだした。


「太鼓」の起源は古く、紀元前2500年ごろのシュメールの浮彫りにみられるそうです。太鼓は、音高が明瞭に表現できず音の減衰が速い半面、拍節を明確に表現できるので、独奏より合奏のなかで多く用いられます。オーケストラのティンパニのように合奏音量の増減を表現するのにも適していて、太鼓の演奏者は合奏のなかで統括的役割を果たします。

ヨーロッパ中世から近世にかけて、小太鼓は軍隊の信号、船上でのあらゆる合図に使われたそうです。日本でも軍楽器の総称として「陣太鼓」があります。相撲の触れ太鼓のように、場の雰囲気を高める儀礼的な使われ方にも使われます。歌舞伎囃子のように、雪、波、雨、風など特定の情景を表出するために一連の打奏のパターンを使うこともあります。

アフリカの「太鼓ことば」は、話しことば固有のリズムやイントネーションを直接的に模倣して楽器音に置き換えます。太鼓ことばへの変換によって、より遠くまでメッセージの通達ができ、メッセージは話しことばよりも秘儀性を帯びます。

太鼓の演奏で、話しことばの音韻やリズムの影響は大きいそうで、太鼓の教授で使われる口唱歌は「口太鼓」ともよばれます。テレツクテンテンというような音韻の連続で音型のまとまりを記憶し、スムーズな打奏を導き出すことに役だっています。

この作品の楽隊は「ケームリモミヱズ…………クモモナク」と「太鼓ばかり嫌にひびかせて」「街道をゆ」きます。

含むところ大きい秀作である。音楽をきいていて知らずしらず体で調子をとっているなど、日常よく経験することだが、この作品は「音楽」ないしは「歌」の発揮する気持の悪くなるほど圧倒的な力を見事に捕えている。いくらもがいても「ぼく」は「音楽」につりこまれてしまう。だから「ぼく」はゲラゲラと笑いを吐きだして対抗するしかない。この笑いは自嘲であろうか。自嘲でもあろうが、より、恐怖であり、憎悪であるだろう。この憎悪こそ後年の小野をして短歌的抒情の否定を叫ばしめた源である。《安》

2017年4月3日月曜日

白昼

   白昼

青空に風船がただよふてゐた
それを知つてゐるのはぼくだけだ
誰ひとり気のつくものはない
通りがかりの人をつかまえて
空を指しても
見えないよとどなつて相手にもならない
高い樹の間の空に
ちつぴりさつきの風船が見えてゐる
赤い風船が浮いてゐる
皆んなはほんたうに見えないのか
馬鹿野郎! どちらだ。


Wikipediaによれば、「風船」は、1905年、日露戦争の終結後の戦勝祝いでゴム風船が使われたのがきっかけで、玩具として一般に普及するようになります。同年11月には大阪市外に伊藤護謨風船工場ができ、ドイツ製ゴム風船をもとにした国産のゴム風船が製造されるようになりました。

1907年には、無地のゴム風船に文字や絵を彩色する名入りの方法を東京・渋谷の金子佐一郎(金子護謨風船工場)が発明。

1910年9月8日には山田猪三郎により、逆三角形の形状をした国産飛行船が初飛行しています。

大正期以降には俳句の春の季語として「ゴム風船」が登場するようになりました。

この詩の「風船」とはなんなのでしょう。「ぼくだけ」が知っている「秘密」なのか。それとも、「誰ひとり気のつくものはない」ことに対して、「見えないのか」「馬鹿野郎!」と苛立ってくるような「真実」でしょうか。

「ぼく」は青空の風船を追う。風船の存在を知っているのは「ぼく」だけであって、風船は本当は存在しないのかもしれない。風船は実際に存在しているのだが、ただの風船なのかもしれない。人々は見ても全く気にとめないのかもしれない。だが「ぼく」は風船が重大事かもしれないとおもう。いや、重大事だぞとおもう。このおもうということがこの作品を書かせたといっていいだろう。《安》

2017年4月2日日曜日

街道にて

   街道にて

田舎の街道を行つたときに
ぼくは電柱を数えてゐた
一本でも数え損ねないやうにと
おちつかない散歩をつづけてゐつた
そして二里ばかりきたときに
そんなにはつきりとしていた総計が
ふいと頭脳から消えて失つた
しかし電柱はずーとはるかに
街道に添ふて地平線にうすくつづいてゐた
ぼくは無気味な電柱の誘惑に圧倒されて
ついに苦しくなつた
そして田舎の悪臭に一層ものうくされたとき
すこしでも郊外にあこがれて出てきたぼくがなさけなかつた
遠い畑のはてで
玩具の電車が動いた。


現在のような、耐久性や耐火性に優れたコンクリート製の電柱が普及するようになったのは、昭和に入ってから。この詩が作られた大正末までは木製のものが多く、電柱材用のボカスギが富山県などで盛んに栽培されました。

NTTの資料によれば、電信の供用は1869年、東京・横浜間でが始まりました。1875年には札幌まで開通。これで北海道から東京を経て、九州までつながる電信網ができあがった。1880年頃には、日本の大都市を結ぶ電信網が完成しました。

このころの電信電話には多重通信の技術はほとんどなかったため、1回線につき1本の通信線が必要でした。 そのため1本の電信電話柱に数十本の架線がなされていたそうです。

「ぼく」は電柱を数えながら歩いている。その数えるという行為もまたとるにたらぬ行為であって、歩きながらの気まぐれといってもいいはずだが、「ぼく」にとってはかならずしもとるにたらぬ行為ではない。だから、数えつづけたてきた電柱の数がどうしたことかふいに頭から消えたとき、田舎の悪臭が「ぼく」をものうくとりかこむ。《安》

2017年4月1日土曜日

盗む

   盗む

街道沿の畑の中で
葉鶏頭を盗もうと思つた
葉鶏頭はたやすくもへし折られた
ぽきりとまこと気持のいゝ音とともに
――そしてしづかな貞淑な秋の陽がみちでゐた
盗人奴! とどなるものもない
ぼくはむしろその声が聞きたかつたのだ
もしそのとき誰かが叫んでくれたら
ぼくはどんなに滑稽に愉快に
頭に葉鶏頭をふりかざして
晩秋の一条街道をかけ出すことが出来ただろう
しかしあまりたやすく平凡に暢気に
当然すぎる位つまらなく盗んだ葉鶏頭を
ぼくはいま無雑作に
この橋の上からなげすてるだらう。


「盗む」は、1926(大正15)年11月3日に太平洋詩人協会から発行された小野十三郎の第1詩集『半分開いた窓』に収められています。

「葉鶏頭」は、熱帯アジア原産のユリ科の植物で、春にタネをまくと晩秋には枯れてしまう一年草です。花を観賞するケイトウに対し、葉を観賞するケイトウという意味が名前に込められています。

ふつう春にタネをまいて育てます。大型の草花で、大きなものは2メートル近くになります。初めは緑色の葉を出し、夏ごろ茎の頂点から黄色と赤に色づいた葉を出します。

秋の低温で、葉色はさらに深く、鮮やかになって見ごろを迎えます。この詩は、ちょうどそのころの葉鶏頭を描いているのでしょう。しかし、熱帯性の植物なので耐寒性は劣り、霜が降りるころには枯れてしまいます。

日本には、大むかしに中国経由で入ってきました。中国では、雁が渡ってくる秋に見ごろを迎えることから「雁来紅」と呼ばれます。中国語読みでは「イエンライホン」というそうです。

「ぼく」は葉鶏頭を盗もうとおもう。犯罪ともいえないたわいもない行為ではあるが、盗もうとおもいさだめて、盗む。だが、「ぼく」の期待に反して誰もどならない。誰も追いかけてこない。期待が満たされないとき、行為はとたんにつまらないものとなる。盗んだ葉鶏頭は無雑作に投げすてられる。《安水稔和の注》