2017年5月31日水曜日

   山

山がある。
それはやや富士に似てゐる。
あるひは富士そのものかもしれぬ。
含銅硫化鉄の大コニーデ。
夏日天を仰げば全山の岩肌黒光り。
はげしく水墨に抗して
靄を吐かず。


「含銅硫化鉄」は黄鉄鉱を主体とし、黄銅鉱などを含む硫化鉱物の集合体。玄武岩質火山岩類に伴い、層状をなして産する含銅硫化鉄鉱床をキースラーガーといいます。普通1~2%の銅を含み、亜鉛も数%に達することもあります。中央構造線の外帯に接する三波川変成帯に多く見られ、かつては日本の主要な銅の供給源でした。

「コニーデ」は、円錐状の火山、成層火山のこと。ある火口を中心に、爆発によって放出された岩塊、礫、灰などと、流出した溶岩が幾重にも積み重なって形成された火山。安山岩や玄武岩からなる火山に多く、富士山、岩手山、開聞岳、伊豆大島、羊蹄山=写真、wiki=など日本の火山の大半を占めます。山体の傾斜は、麓では緩やかでですが、中腹では20~25度、頂部では30度、ときには40度に達することもあります。

*『物の言葉』(せりか書房)中の小野十三郎論のなかで高良留美子はこの作品について「物質の主体化、あたらしい意味での物質の精神化に成功しているといえるだろう。新しい人間主体の対応物としての人間主体が、そこにとらえられ、表現されているのだ」と述べ、さらに、ボードレールともシュールレアリストともちがった、外界のなかでの人間と物質との対応関係が「山」においてとらえられていて、それは「外界との関連を失った『精神』や『内部』のうちに閉じこもらない眼、それ自体一個の客体となることを通して世界に働きかける詩人の眼と主体によって、はじめてとらえられた関係」だと述べている。《安》

2017年5月30日火曜日

露天掘

   露天掘

かつてここに
山があつた。
鬱蒼として樹々は茂り
千古の靄につつまれてゐた。
かつて山であつた大空間。
これがその周壁だ。
腑分けされた肉体のやうに無慚な
鉛色の段丘を
天日に曝してゐる。
ヒンガム。メサビ。
キルナヴァーラ。
夢にくる日本の山も
かくのごとくあれ。


「ヒンガム」は、中国東北部の地名か。満州語で丘陵を表すヒンガンの漢字転写に由来します。中国語読みではシンアンで、この名がついた山脈に、南北約1200kmに及ぶ満洲・内モンゴルの火山山脈だる大興安嶺山脈などがあります。

「メサビ」は、メサビ鉄山=写真、wiki=のことか。米ミネソタ州、スペリオル湖西岸を東北東から西南西に走る約180kmの細長い丘陵性山地。米国最大の鉄鉱産地として知られます。

「キルナヴァーラ」は、スウェーデンで最も北に位置する都市、キルナ市にある鉄鉱山。

*『日本詩人全集』第26巻(新潮社)の解説で長谷川龍生はこの作品について「俳句的な対象への断絶感をもちながら、一つの現実の流れに対する抵抗体として、むだなものが一切排除されている。過去と未来が同次元にとらえられ、その次元が厳然として不動の思考現実として存在する個のあり方が、ありありと窺えるようだ」と述べている。《安》

2017年5月29日月曜日

サルガス

   サルガス

遠い
未知の
海の涯にまた一つの海がある。
それはむかしダーウィン海峡で見たと云ふあの暗い藻の海に似てゐる。
夜も昼もない。
測定しきれぬ。
ただもうふしぎにしづかな暗黒の大波濤の中に
数千万立方粁にわたつて
溶けた膠のやうな物質が累々たる層をなして搖動してゐる。
たとえばそれは曹達や苛性加里だ。
塩素や臭素や沃度のごときだ。
フコースや燐だ。
或は透明な肢体を張つて
一滴の海水を宇宙とするものらだ。
飽和する元素。
生命と物質。
夜も昼もない。
ただもうしづかだ。


「サルガス」(Sargas)は、現在は、さそり座θ(シータ)星(しっぽを構成する2等星)の呼び名になっています。もともと、さそり座λ(ラムダ)星とυ(ウプシロン)星を指していたそうで、2016年8月に国際天文学連合の恒星の命名に関するワーキンググループが、さそり座θ星Aの固有名として正式に認めたのだとか。シュメールの神話に出てくる神、マルドゥックが使う2つの武器に由来しているそうです。

さそり座は、夏の宵の南の空低くに見える星座で、真っ赤な1等星アンタレスを中心に十数個の明るい星がS字形の曲線を描いています。ギリシア神話では、狩人のオリオンが「この世に自分ほどの強者はいない」と豪語したため、女神ヘラがこの毒サソリを放ってオリオンを刺し殺させたといいます。

「膠」は、工芸の接着剤や絵の顔料の溶剤などに使われる「ニカワ」で、「曹達」は 炭酸ナトリウムの俗称の「ソーダ」。「苛性加里(カセイカリ」は洗浄剤や石鹸の材料として用いられる水酸化カリウムのこと。

*ふしぎな魅力をもった「夢」である。ここには複眼を必要としない詩的現実がつくりだされている。《安》

2017年5月28日日曜日

全国の雨

   全国の雨

雨はしづかに降つてゐる。
どこまでいつても晴れやらず
全国の雨は降つてゐる。
水田の上に 孟宗林に
湖に降つてゐる。
もう三十里は離れたが
全国の雨は降つてゐる。
全国の雨は鬱蒼とした山中に降つてゐる。
窓から俯瞰する谷合の
暗い田の上にも降りこんでゐる。


北海道は亜寒帯、沖縄は亜熱帯ですが、日本の他の地域は温帯に属し、四季の区別がはっきりしています。夏は南東から、冬は北西からの季節風が吹き、その影響で夏は太平洋側で雨が多く、冬は日本海側で雪が降りやすくなっています。

6月上旬から7月上旬にかけての梅雨期には、北海道を除き、長雨が続きます。オホーツク気団と小笠原気団との間につくられた梅雨前線が日本列島の南部に停滞することによってもたらされます。

台風は、南方海上に発生した熱帯低気圧が発達したもので、7月から10月にかけて日本列島を何度も通過して強風や集中豪雨をもたらし、山崩れや高潮、水害などの災害もしばしば発生します。

カラッと乾いた欧米とかとは異なり、確かに日本は湿気の多い「雨」の国であり、それが特有の国民性を生んでいるという側面があるのでしょう。

*この作品のリズムを支えているのは、他でもない、日本的湿気に対する嫌悪感である。小野がくりかえし「葦の地方」を書いてきたのはそこが乾いていて透明であり荒れはてているからだった。鳥取の砂丘へ行ってみたいと「日本の砂漠」で書くとき、小野は日本ばなれした乾燥の地をおもいえがいているのだ。後出の「山」の末尾2行「はげしく水墨に抗して/靄を吐かず」は日本ばなれした物質としての富士をよしとして捕えた言葉である。《安》

2017年5月27日土曜日

黄昏の地平

   黄昏の地平

山を越え
谷を渡り
君もまた長い旅行を私とともにしてゐる。
君を田園の中で見失なつたとき
私は寥しかつた。
けれども君はやはり私と並行して
遠い平野の果を旅してゐた。
まもなく大きな都会(まち)が近づいてきた。
君は再び姿をあらはした。
はるかに碍子は白く光り
蠍(さそり)のやうな鉄柱の群はしだいに近接してきた。
一梳き 二梳き 三梳き
そしていま私の列車の屋根を斜めに飛びこえる。
頭(かうべ)をめぐらして私は君を反対側の車窓に追つた。
黄昏の地平は暗く
煙霧がたちこめてゐる。
君の行方を見送つて
ここで訣れる。


この作品で詩人は送電線(高圧線)とともに「遠い平野の果を旅して」います。送電のための電線路で最も多い架空線式は、碍子(がいし)を介して、鉄塔、鉄柱その他に架設されます。電線には導電率の高い硬銅線、硬銅線よりも軽い鋼心アルミ撚線(よりせん)、コロナ発生を少なくするため外径を大にした中空銅線等が使用されています。

電気の旅のスタートは、電気をつくる発電所です。発電所では、数千V~2万Vの電圧の電気をつくりますが、これを発電所に併設された変電所を使って、送電に効率のよい電圧に変換し、送電線に送り出します。各発電所でつくられた電気は27万5000~50万Vという超高電圧に変電されて送電線に送り出されます。変電を繰り返して徐々に電圧を下げるのは、発熱による送電ロスを少なくするためです。送電ロスが少なくなれば、長距離の区間を効率的に送電することができるのです。

大正に入って約10年間は、電線工業の成長時代と考えられます。電気事業は電燈時代から電力時代に移行し、数多く電力会社が創設されました。大電力の水力発電所を遠隔の地に求めたため、長距離の大送電線の建設が必要とされ、送電電圧も急激に高められてきました。1914(大正3)年には11万5千Vが完成。1916年には2万V、1921年には3万V用のケーブル製造が行われています。

*旅先の車窓から眺めている小野の心をひきつけるのは、やはり山でも谷でも平野でもなく、送電線であった。自分と同じように旅をしているようにみえる送電線への親密感は、普通、詩人の旅する心の反映として捕えられて抒情詩のかっこうの題材となるが、小野の場合、いささか異っている。明らかに小野は送電線を「もの」として自己の対置物として捕えており、そう捕えることで、まるで同志へ呼びかけるような親密な呼びかけが発せられている。ここにあるのは感情移入ではない。重工業につながる送電線を見送る小野の視線はやはり『風景詩抄』で達成した視力にちがいない。《安》

2017年5月26日金曜日

鄙びた海岸の大煙突に

   鄙びた海岸の大煙突に

都会では
ああいふものを見ても
もう少しも興奮をおぼえぬが
やつぱりふいにこんなところでそれを見るとドキツとする。
隧道を出ると海だつた。
その海の突鼻の君の孤独。
陽はややななめに
白いコンクリートの胴腹にゆれる煤煙の影もしづかだ。
都市の一つの性格を破壊するやうな
或は工業の古い概念を否定するやうな
洗はれた鮮烈なものがそこに聳えてゐる。
いやむしろこの世のものと思はれぬ
ふしぎなしづかな世界を夢みさすやうなものが
そこを過ぎる。


煙突の機能は燃焼ガスの排出にあります。ですから、ガスの種類、量、温度 、速度などによって設計され、必要があれば送風機で強制排気します。

「大煙突」では、佐賀関、四日市、日立=写真=各製錬所の高さ 200m前後のものが有名です。近年では他の地域でも、大気汚染公害緩和のため 70m以上とし、数ヵ所の排出ガスを煙突上部で1本にまとめる大型の集合煙突の建設も多くなりました。

*旅先で瞥見した工場の煙突に興奮する小野の性癖が均衡のとれた書体で書きとめられている。「そこを過ぎる」という表現には、小野が工業に見ていたものが概念のように定着したものではない常に運動量を含んだ「夢」だということを示しているとともに、旅先での車窓よりの不意の瞥見の視点が重なって、美しい結句となっている。
 尚、戦後の詩集『大海辺』中に「小旅行より」と題して次の5行がある。
 その昔旅の窓より
 なれが見しかの山の碧き入江の
 大いなる人造石油。
 いまは無しと
 友きたり語りて去りぬ。

2017年5月25日木曜日

工業

   工業

洫(いぢ)川を埋め
湿地の葦を刈り
痩せた田畑を覆へし
住宅を倒し
未来の工場地帯は海に沿うて果しなくひろがつてゐる。
工業の悪はまだ新しく
それはかれらの老い朽ちた夢よりもはるかに信ずるに足る壮大な不安だ。

私は見た。
どす黒い夕焼の中に立つて
もはや人間や鳥どもも棲めなくなつた世界は。

またいい。


「洫」は、田畑の外わくをなすみぞ、通水路。

カルテル結成や大量解雇を含む合理化で、1929年(昭和4)恐慌を切り抜けると、軍需に支えられた重化学工業が発展。日中戦争前年には重化学工業の生産が軽工業を追い越し、戦時体制下、中小工場まで軍需生産に総動員されるようになりました。農業への重税と「女工哀史」に象徴される低賃金が、軍需と植民地市場依存型の「工業」の発展を可能にしました。

*小野の複眼は工業の悪を「信ずるに足る壮大な不安」と呼ぶ。人間も鳥も棲めなくなった世界を見て「またいい」という。なぜか。ここで公害問題や経済高度成長などをもちだしてみても、それは意味がない。このような意図的反語を正確に理解するためには、どうしても小野の「夢」を、「夢」を支える「複眼」を知悉する必要がある。小野が重工業を讃美していると単純に考えてはならない。「工業について私が知るところは、それはいま何かのアンチ・テーゼだということだ」と小野は『詩論』43で記している。「いま」何かのアンチ・テーゼなのだ。これはまさに自覚された「偏向」といえる。
「詩とは偏向する勁さのことだ」と小野は『詩論』89で記しているが、その「偏向する勁さ」である。戦争の悪寒のただなかにあって「歌」を
抒情」を「精神主義」を
自然観照」を徹底的に憎悪し、むしろ「物」に「葦」に「工業」に執することを自らに課する勁さである。《安》

2017年5月24日水曜日

重工業抄

   重工業抄

生国不詳
昨日私はここに来たやうでもあるし
何十年も昔からここにゐるやうな気もする。
年齢だつてさだかではない。
まだ若いといふ人もゐるが
記憶は朦朧としてゐる。
ただ前方に枯れた葦原があり
背後に暗い大きな海があつた。
葦原には鳥たちも啼いてゐた。
ところどころに家らしいものも建つてゐたが寥しかつた。
無人の野に一列の電柱がはしつてゐた。
その頃だらう。一粒の種子が
この荒漠たる岸に流れついた。
そして孤独にこの国の草の根のからんだ柔かい土から萌え出た。
それは昨日のやうでもあるし
何十年も前の出来事のやうでもある。
昔、海だつたあたりも
いつしかこんなに遠く海からはなれてしまつた。
葦原のまん中だと思つてゐたが
どうしていまは仲間が増えてこの通りだ。
かつてこの国の岸が私にとつてさうであつたやうに
人々はまだ私になじまない。
ひよつとするとこの国の人は私たちが嫌ひなのかも知れない。
私たちはほんとうにこの国が好きなのに。
こんなに居心地のよい土地はいま世界の何処にあるだらう。
私たちはやうやく
この国の自然の中に自生して
生国不詳の悲しさを
忘れてゐる。


「重工業」は、産業構造をとらえる際の概念の一つ。常識的には製造工業を中心に近代工業を2つに大別して、軽工業と重工業としてとらえるところから出発していますが、産業の実体の発展や経済理論の進歩につれてその定義はかなり変化しています。

通常、重工業という場合は、金属、機械、化学の三大工業部門を中心に資本財生産、投資財生産、あるいは生産財生産に重点をおいた工業領域をさしますが、実際的な用語法ではさらに厳密に「厳格に用いる場合は鉄鋼および石炭工業に限られる」とする見解もあります。

鉄鋼、金属工業などに機械工業を加えたものを重工業とし、これに化学工業を加えて重化学工業と呼びならわす用語法もあります。この場合は重工業の領域としては鉄鋼1次製品、鋳鍛鋼、圧延鋼材、金属2次製品、非鉄金属、産業用一般機械、精密機械、産業用電気機械、民生用軽電機械、自動車、船舶、車両などを中心としています。

このような重工業ないし重化学工業という概念で産業をとらえるのは、経済発展と産業構造の関係を理論的、政策的に的確に追究するねらいの場合が多いものの、国によりまた発展段階によって実情が異なるので、過度に厳密に理解したり固定的に考察することはできません。

*「人々が私になじまない」ということはどういうことか。そして、「こんなに居心地がよい土地は他にない」というのはどういうことか。擬人法によって滑らかに重工業に語らせつつも、重工業を見る小野の眼はあきらかに複眼的である。《安》

2017年5月23日火曜日

人造石油工場一つ

   人造石油工場一つ

錆びた鉄路の間で
月見草は年々その種を絶やしてゆく。
アルミニュームペイントを塗つた
銀灰色の巨大な球が
灼けた砂の上にならぶ。
通俗科学書が説く
太陽熱や潮汐の利用などといふことは私を少しも興奮させない。
私の空想は極めて控へ目だ。
もう二三十年もたてばこの地上から掘りつくされるといふあの生臭い真黒な泥を未来だと云つてゐる。
海を見よ。
あきらかに
一つの設計が
そこに創まるとき
地上の風景は心憎きまで荒廃して見える。
私は 物より
わづかに早く
そこにゆかう。
発明や
資本や
鉄骨や軌道の集積より
わづかに早く。


「人造石油」は、石油以外の化石資源すなわち石炭、オイルシェール(油母頁岩)などを加工して得られる石油代用燃料のことです。石油資源の乏しいドイツなどで開発された技術で、第2次大戦ではドイツの年間総需要の30%、500万トンもの人造石油が製造されたそうです(写真は、ドイツ・IGファルベン社の人造石油プラント)。

日本でも満州(中国東北部)、朝鮮半島、樺太(サハリン)、北海道など18か所の人造石油工場を建設、1941~1944年の間に年産20万トン余りを生産していますが、完全な工業化に至る前に終戦となりました。

石炭も石油も主成分は炭素と水素です。水素が石油には13%以上含まれますが、石炭は5%以下です。石炭に水素を添加することによって石油類似の炭化水素に転換しようとするのが、石炭の直接液化法(水素添加法)です。

この方法で1913年、ドイツのベルギウスは直接に石炭を石油に変えることに成功しました。微粉砕した石炭に石炭液化の工程でできた重質油を50%以上加え、鉄系の触媒を数%混ぜた石炭ペーストを、反応温度450~470℃、水素圧力300~700気圧の反応塔に送入して反応させると石炭の大部分が人造石油に転換します。

1927年に初めてドイツのロイナに年産10万トン規模の本格的な液化工場が建設され、第2次大戦中の1943年には五つの液化工場から150万トンの内燃機関用燃料が生産されました。

日本でも1923(大正12)年に、燃料研究所と徳山海軍燃料廠で研究が始まり、大戦中には満鉄撫順と朝鮮人造石油阿吾地で、1日の石炭処理量がそれぞれ50トンと100トンの試験工場が稼動しましたが、大量生産には至りませんでした。

*人造石油工場とは文字通り石油を人造する工場であって、今日全盛の石油化学の工場ではない。小野は私の空想は極めて控え目だといいつつ海に人造石油工場一つを見る。そして「物よりわづかに早くそこへゆかう」という。安東次男がこの詩にかかわって「小野十三郎の詩を解く鍵はこの願望の持続の度合いとそれが採る姿を見定めるところにかかっている、といってもよい」と示唆している。「物よりわづかに早く」という詩句にこの詩の「夢」の重味がはかられているといっていいだろう。

2017年5月22日月曜日

葦の地方(五)

   葦の地方(五)

風の中に
煙がみだれる。

おれが草だつて。
むしろ鉱物だよ。
地に突き刺さつた幾億千万本のガラス管(チユーブ)

ひよつとすると
ああ、これはもう日本ぢやないぞ。


ふつう、溶融法でつくられた、ケイ酸塩、ホウ酸塩、リン酸塩など無機酸化物で、非晶質固体状態にあるものをガラスと称します。

地球上に初めて現れたガラスは、自然がつくりだした黒曜石といわれます。火山から噴出した溶岩が急冷されるとガラス質になるものがあります。光沢があり、割れやすく、薄い部分は光にかざすと深い紫色に見えたりします。

紀元前1世紀ごろ、軟らかいガラスを鉄パイプの先に付け吹いて中空の器をつくる技術が現れました。しかし日本では明治時代になるまで、日常生活のなかにガラスが取り込まれることはありませんでした。

ガラスの特徴の一つに、成形、加工しやすく、菅状、板状、瓶状など、自由な形状をつくることができる性質があります。

蛍光灯のような「ガラス管」は、溶けたガラスを回転する円筒の周囲に巻き付けて融着させた後、円筒内部にガスを送りながら円筒周囲のガラスを引っ張ることによって管状に成形するそうです。

*ここにおいて葦はもはや植物ではなくてむしろ鉱物、幾億千万本のガラス管と化している。「風景(八)」で小野は「人の一生をもつてしても達し得ない地球の裏側よりも遠いところに」出てしまったが、ここでは小野は「これはもう日本じゃない」ところへ出てしまう。《安》

2017年5月21日日曜日

葦の地方(四)

   葦の地方(四)

いつか
地平には
ナトリユムの光源のやうな
美しい真黄な太陽が照る。
草木の影は黒く
何百年か何千年かの間
絶えて来ない
小鳥の群が
再びやつてくる
三角形状の
縁だけが顫動する金属板が
杳く
蒼空の中に光る。
機械はおそろしく発達して
地中にくぐり
見えない。
太古の羊歯のしづかさに
たちかへる。
やがて いつか
そんな日が
或はやつて来ないとはかぎらない。
ここにいささか余裕を生じ
心の平衡と
希望があつて
それらを緻密に計量出来るならば
この国の鉄には
この国の石炭や石油には
この国の酸素や窒素
塩酸や硝酸や二硫化炭素にはそれだけの用意もあるだらう。
羊歯の葉つぱや
鳥たちの純粋な飛翔のやうな
何か おそろしくしづかな
杳い夢のやうなものも
或は。


「ナトリユムの光源」とは、ナトリウム蒸気中のアーク放電によって放射される光を利用したナトリウムランプのようなものを想定しているのでしょう。ナトリウムランプは、低圧ナトリウムランプと高圧ナトリウムランプとに大別されます。

①低圧ナトリウムランプ ナトリウムの蒸気圧を約0.5パスカルとしたもの。もっとも効率よくナトリウムのD線(589.0と589.6ナノメートル)を発光する橙黄(とうこう)色のランプです。1932年にオランダのホルストによって実用的なランプが完成。日本では1934(昭和9)年に実用化され、1957(昭和32)年から普及しました。ランプの構造は、ナトリウム蒸気に侵されない特殊ガラスを発光管とし、これをU字形に曲げ、ナトリウム金属と始動補助用ガスとしてネオンと少量のアルゴンの混合ガスを封入します。効率は実用光源のなかでもっとも高い(175ルーメン/ワット)ものの、橙黄色の単色光なので、演色性が非常に悪いため、トンネルなどの照明など使用は限られています。

②高圧ナトリウムランプは、黄白色の光で、実用白色光源のなかでもっとも効率が高い(400ワットで115~140ルーメン/ワット)。1963年アメリカで高温のナトリウム蒸気に耐える透光性アルミナセラミックス発光管が開発され、ナトリウムの蒸気圧をあげることにより実用化されました。日本では1969年に完成しています。ランプの構造は、透光性アルミナセラミックス発光管の両端に電極をセラミックキャップまたはニオブ金属キャップで封止して発光管とし、これにナトリウムのほか水銀、始動用のキセノンガスなどが封入されています。道路などの屋外一般照明や高天井の工場照明、スポーツ照明に多く使用されるようになりました。

*安東次男が『日本の詩歌』第20巻(中央公論社)の解説で「作者の希望というよりは、ありうべからざること、そんな日が来ることはありえない、と知っての空想のたのしみである。そこに小野のニヒリズムの深さを読むのでなければ、この詩はおよそ無思想、無内容なものとなろう」と述べている。「ありうべからざることを知ってのうえでの空想」という指摘は正確である。ではなぜ小野は「空想」にふけるのか。小野は自作解説をして「本来人類の福祉にこうけんすべき重工業の発展と、それの現実の姿の対比を、近づいてくる戦争の危機の予感の中でとらえようとする」ところにこの詩の主題があったと述べている。なるほどそうであるが、それにしても、「羊歯の葉っぱ」とか「鳥たちの純粋な飛翔」にやっとたとえてみせた「何かおそろしくしづかな杳い夢のやうなもの」というこの確かではあるが低い発声は、あきらかに醒めて「夢」みるものの所為に他ならないだろう。中央部で、「その日がやって来るだろう」とはもちろん書きえず、「やがて」「いつか」「そんな」日が「或は」やって「来ない」「とは」「かぎらない」と書きとめたこの息づかいもまた発するところ同じであるだろう。「葦の地方」を見据えてきた小野を襲いつづけた「戦争」は小野の意識を二重三重に遮断し、視線を二度三度屈折させずにはおかなかったのだろう。
 尚「三角形状の……」以下4行はフランスの小説家グスタブ・フロオベエルの『聖アントワヌの誘惑』の中にある砂漠の上を渡る渡り鳥の描写の一節で、砂漠といくらか似ている大工場地帯の葦原の未来風景の描写に借用したという。《安》

2017年5月20日土曜日

今日の羊歯

   今日の羊歯

海近く
地は劃られてゐる。
冬陽が射してしづかだ。
大気はかすかに硫酸銅を含み
そこには鉄と電気とカーバイトがゐる。
見よ、赤錆びた葦を。
炭化する羊歯のやうに
この索寞とした原へ
徐々に精神の同化を完了してゆく禾本科植物。
それからすでに透きとほつた或種の小鳥、蜻蛉、蜆蝶。
そいつらの小さな魂たち。
人間はずうつとまだおくれてゆく。


「禾本」(かほん)は、イネ科植物のことです。イネ科の特徴は、一般に節があって中空の幹 (稈) があり、線形の長い葉は平行脈で下半部は鞘をなし、葉鞘と葉身の境に膜状の葉舌があります。花は小さな花の集りである小穂と呼ばれる独特の構造をもちます。小穂には包穎、外花穎、内花穎などがあり、内花穎に包まれておしべとめしべがあり、これが熟したものが穎果です。

「蜆蝶」(シジミチョウ)=写真、wiki=は、鱗翅目シジミチョウ科に属する昆虫の総称。開張1.4~6.5cm。世界に約5500種が知られています。日本には、アカシジミ、ウラギンシジミ、ウラナミシジミ、ゴイシシジミ、トラフシジミ、ヤマトシジミなど約70種が土着しています。小さなシジミを開いたような感じがするのに、その名の由来があります。青、緑、赤などの美しい金属光沢をもつ種類が多いが、オスに比べメスの色彩は地味です。

*昭和15年に山雅房から出た『現代詩人全集』第1巻に小野は「今日の羊歯」と題して一群の詩を発表したが、そのプロローグに次のように書いた。「人がそれを歴史とよぶところのものには何かしら私をゾッとさせるものがある。追っ立てられるように私は明日へ向って避難をこころみる。私の羊歯や鱗木や三葉虫へ。私は性来好戦的だが、ただもう少ししずけさがほしいのだ」。このなかにある「明日」という言葉を「夢」といってもいい。「夢」のなかで葦も小鳥も蜻蛉も蜆蝶も徐々に「葦の地方」の「もの」と同化していく。人間のみが「ずうつとまだおくれてゆく」のだ。「もの」に同化しきれないでいつまでも「精神」にひきずられているというのだ。《安》

2017年5月19日金曜日

自然嫌い

   自然嫌い

木の名も
草の名も
あまり知らない。
鳥の名も昆虫の名も知らない。
みな忘れた。
おそろしく不正確な知識と記憶をたどつて
野外の草木を見る。農作物を指さす。
小鳥たちの名を呼ぶ。
自然は応へない。
私はもう永い間それなしですませたのだ。
今朝、私はあの埋立地で
ふいにひばりのやうなものが天に舞ひ上るのを見た。
 (多分あれはひばりだらう)
世界には木も草も鳥も昆虫も存在しない。
完全な記憶喪失の中で
モリだとか ノグチだとか
アユカワだとか
そんな名前をたくさんおぼえた。


「モリだとか ノグチだとか/アユカワだとか」というのは、当時の新興財閥の名前をあげています。

森コンツェルンは、森矗昶 (のぶてる)=写真、wiki= が日中戦争にいたる過程で形成した新興化学財閥。森は1926年日本沃度を設立してアルミ工業に主力を置き、28年には昭和肥料を設立して余剰電力を活用した電気化学、冶金分野へ進出します。

日本沃度は当時の軍需インフレーションに伴って急成長し、34年日本電気工業と改称するとともに傘下に昭和鉱業、樺太炭業、昭和火薬を設立し、35年には宝城興業を直系傘下企業とします。さらに、東信電気、昭和肥料も傘下に加えてコンツェルンを形成しました。

37年には、これらコンツェルンの持株会社森興業 (1922設立) の傘下企業は 27社を数えるにいたっています。第2次世界大戦後の財閥解体によって森コンツェルンも崩壊しました。

第2次世界大戦末まで日本最大の化学工業財閥が、野口コンツェルン(日窒コンツェルン)。1906年野口遵が設立した小電力会社、曾木電気が前身で、08年日本窒素肥料と社名変更し、フランク=カロ法による石灰窒素やカザレー法による硫酸アンモニウムの製造に成功してその発展の基礎が築かれました。

その後日本で初めての空中窒素固定工場の建設、キュプラ糸「ベンベルグ」製造の成功など技術開発に努める一方で、1920年代中期から朝鮮に進出し、水源開発によって得た豊富な電力を利用して窒素肥料を中心とした多くの化学工業を興しました。

41年には直系だけでも 30社、資本金総額 3億5000万円の大コンツェルンに発展した。第2次世界大戦後、外地の資産を喪失し、コンツェルンは解体されるとともに日本窒素肥料は第二会社新日本窒素肥料として再発足、また旭化成工業、積水化学工業などに解体されました。

鮎川財閥(日産コンツェルン)は、1910年戸畑鋳物を設立した鮎川義介が、経営不振となった久原鉱業の再建を依嘱されて社長に就任、28年に日本産業 (資本金 7500万円) と改称して公開持株会社に改組したことにはじまります。

29年鉱業部門を分離して日本鉱業を設立、以来多くの会社の吸収合併、新規設立、直轄事業の分離などを重ねて、37年には日本鉱業、日立製作所、日産自動車、日本水産、日本コロムビア、日産化学工業、日本油脂、樺太汽船、大同火災海上保険など重工業を中心とした 18の直系会社、130の傍系会社をもつコンツェルンに成長しました。

37年には本社を満州に移し、満州重工業開発 (資本金 4500万円) と改称して南満州鉄道株式会社 (満鉄) の重工業関係部門を引継ぐとともに、昭和製鋼、満州炭鉱、満州軽金属製造、同和自動車、満州飛行機製造、満州投資証券などを設立し、日本の満州における植民地経済の中核的存在となりました。第2次世界大戦後の財閥解体の際には直系会社を含む資本金総額は 17億円をこえていたといいます。

*木の名も草の名も鳥の名も昆虫の名もみな忘れたとはどういうことか。世界に木も草も鳥も昆虫も存在しないとはどういうことか。もちろんこれは、単に忘れたのではない。忘れようとして忘れたか、無理に忘れさせられたかのどちらかである。単に存在しなくなったのではない。存在できぬようにされたか、存在しないのだと思いこみ思い定めて
いるかのどちらかである。この意図的な事態はなにごとであろうか。「モリ」「ノグチ」「アユカワ」という名前が当時の新興財閥の名前であったということを知るとき、この作品の意図は急に判明する。《安》

2017年5月18日木曜日

私の人工楽園

   私の人工楽園

いろいろな風景を荒しつくした。
美は新しい秩序を索めるが
心理はまだそれに追つつかない。
夕暗の地平に黒く
犬牙のやうな方解石の大結晶を想像することも出来る。
ウエルス流にそれは未来の都市であり
私はそれに同意しないこともない。
この茫々たる蘆荻の原にあれば私は自由だ。
迷ひこめばガラスや軽金属で造園されたランダアやアルンハイムがあるかもしれない。
私の友はあの向ふの発電所の大煙突を遠景に把へるべくコンタクツクスをあはせる。
だがさうしてみればなんともつまらない。
私の眼は一条の電車軌道をゆき
掛け看板雑然たるあたりを見る。
それは米屋や八百屋や薬屋や土地会社の出張所のごときものである。
私は帰らうと友をうながし
彼も又寒いねなぞと云ひながら浮かない顔をしてゐる。
ランダアやアルンハイムは
一ぺんにどこかに吹つ飛ばされ
未来はさらに
なかなか遠いのだ。


米国の作家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809-1849)=写真、wiki=は、“庭園風景もの”といわれる小説を書いています。理想的な美を求め人工楽園を創造する、緻密な風景描写が特徴的な作品群です。

莫大な遺産を相続した詩人エリソンが、理想的な美を求めて、神の創造した自然でなく詩人の手による新たな美と調和をめざした人工庭園の楽園を創造する物語『アルンハイムの地所 (The Domain of Arnheim)』(1846)や、その続編の『ランダーの別荘 (Landor's Cottage)』(1849)があります。

*人工楽園については小野に次のような発言がある。
「はかないと云えばはかないが、ユートピアだとか人工楽園だとか云われるものがもしあるなら、それはただこのように屈折した時間の中にわずかな夢魔となってその姿をかいま見せるだけで、ポウの『アルンハイムの地所』も『ランダアの家』もそんな時間の産物だと云ってよい」「人間はありのままの自然の進行に極度に退屈するとみなそのようなものを見る」(『奇妙な本棚』)
 コンタックスのレンズでは「人工楽園」は捕えることができないし、ただそこへでかけていったというだけでも捕えることはもちろんできない。「寒いねえ」という言葉を発するとき眼前にあるのは現実の風景にすぎず、未来の風景は「さらになかなか遠いのだ」。《安》

2017年5月17日水曜日

渺かに遠く

   渺かに遠く

渺(はる)かに遠く
それは対岸に煙っている
誰もまだあすこに到達したものはない。
暗い海と 枯れた葦原の
あすこにゆかう。
私は長生きして
きつとあすこにゆきつくつもりだ。
川に沿うて緑色のガソリンカーがはしつてゐる。
煤ぼけの市内電車は
毎朝定刻に夥しい人間どもをあすこに吐き出す。
けれどもあの人たちが完全に
あすこに到達したとは
私は思へない。
私はどうしても思へないのだ。

私はこんな夢を見た。
それは夜中のやうでもあり真昼間のやうでもある。
私は白い大きな落下傘で
遂にその茫寞たる葦のそよぎの中に降りてゐた。
私は夢の中でふしぎな安堵をおぼえ、おーいと声をあげたかつた。
そこはどこか住友伸銅あたりの風景に似てゐたが
なんだか変なところもある。
けつきよくどこだかわからない。
いやにしづかな息づまる世界だつた。


1880年代から1890年代、大阪にいくつもの銅加工会社が設立されました。住友別子銅山の元支配人だった広瀬坦によって1895(明治28)年、大阪市北区安治川上通に創設された日本製銅もその一つでした。

1897年、日本製銅を住友家が買収して、銅・真鍮類を板や棒・線などに加工する事業を担ったのが住友伸銅場(同年4月1日創設、1913年、住友伸銅所=写真=と改称)でした。1909年には製管工場、1912年には鋼管工場を新設し、日本ではじめて銅や真鍮の引き抜き管・継目無し鋼管の製造を行ないました。

*『大阪』の「北港海岸」と比べてみるとおもしろい。『大阪』では風景は現実の風景であり、その現実の「物質」の圧倒的イメージが「葦の地方」をつくりあげたのだが、『風景詩抄』においては、現実の風景から遠ざかっていって「葦の地方」が追跡されているのだ。誰もまだ到達していない場所。「私」は「夢」にすがってそこへ到達する。だが「なんだかへんなところもある。/けつきよくどこだかわからない」のだ。「葦の地方」は地理的にではなく心理的に「杳い」ものとなり、いまや現実の風景から隔絶しようとしている。

2017年5月16日火曜日

葦の地方(三)

   葦の地方(三)

あの人は
たいそうよく稼ぐんですよ と
お母さんは云つてゐる。
こんなところに住んでゐなさるが
それはなかなか偉いんだつて。
僕もその人を知つてゐるが
僕はあんなに真赤に地灼けした顔の人を見たことがない。
いつも火の傍にゐると
ああなるんだつて
母さん、しってる?
どんな火だらう。


バチバチ火花を散らせる溶接作業は、熱いだけでなく危険なのは溶接器から出ている紫外線や赤外線です。眼球や肌に重いダメージを与え、肌の奥まで浸透してシワやガンの原因にもなります。

「あんなに真赤に地灼けした顔の人を見たことがない」というのは、電気溶接による紫外放射によって皮膚炎を起こしたのでしょうか。

紫外放射による皮膚炎は、皮膚が赤くなる、水ぶくれが生じるといったもので、日焼けと基本的には同じです。ふつうは数日程度で自然に消えますが、重くなると表皮が剥け落ちることもあります。

溶接の光から、目や皮膚を守ってくれるのが「遮光(ヘルメツ)面」なのです。

*そこで働いている人の顔は真赤に地灼けしているのだが、子どもはそこで燃えている「火」はどんな火なのだろうかと不思議がる。《安》

2017年5月15日月曜日

葦の地方(二)

   葦の地方(二)

電気溶接の
あの遮光(ヘルメツ)面をかぶると
みんな揃つて化物みたいだ。
どこにお父さんがゐるのかわからない。
菫色の跳ねつかへる花火を浴びて
お父さんによく似た人が
あつちを向いて仕事をしてゐる
お父さんと呼んでみたが
その人にはきこえない。
こんなに杳(とほ)い杳いところまで
僕が蹤いてきてゐる なんて
その人思へないんだ。


「電気溶接」は、電気的エネルギーを利用する溶接法。アークによる熱を利用するアーク溶接=写真、wiki=や、電気抵抗による発熱を利用する抵抗溶接があります。

溶接する母材と電極棒の間または2本の電極間にアークを発生させ、生ずる高温を利用するのがアーク溶接。直流・交流の双方が使われます。電極棒が溶接棒を兼ねる消耗式と、炭素またはタングステンを電極とする非消耗式があります。

抵抗溶接は、溶接部に大電流を流し、これによって生ずる抵抗熱で接合部を加熱して、同時に大きな圧力を与えて金属を溶接します。

*子供の口を通して「葦の地方」が語られている。「お父さん」の働いてる場所は「杳い杳い(とおいとおい)ところ」である。《安》

2017年5月14日日曜日

北西の葦原

   北西の葦原

そんなにぽんぽをだして
風ひかない?
兄いちやんはどこへいつたの?
あ、あんなところだ。
たくさん蜻蛉捕れたね。
もう指に挟みきれないね。
兄ちやんまだ追つかけてるよ。
をぢさんはこのみちをまつすぐにいつてみよう。
まつすぐにいつたらどこへ出るだらうな。
をぢさんいつてみるんだ。
をぢさんはじめてきて
こことても好きになつた。
きみは毎日兄ちやんと蜻蛉を捕りにくるの?
いいね。毎日こられていいね。
きみのお家はきつとあの辺だとをぢさん思ふ。
近いんだもの
裸だつてかまはないや。
をぢさんは遠いから
洋服を着て 靴をはいて
ちやんとして来なければならない。
とつても遠いんだよ。
きみの知らない遠い遠いところからをぢさんやつて来たんだ。
さあ、どこへ出られつかな。
海かな。
をぢさんいつてみる。
いいところだといいな。


大阪府高槻市鵜殿から上牧に広がる河川敷には、淀川流域で最大級のヨシ原があります。鵜殿のヨシ原です。

長さ2.5km、広さ75ha(甲子園球場18個分)にも及ぶヨシ原には植物が生い茂り、「蜻蛉」をはじめ、鳥や昆虫の楽園となっています。

1930年に枚方大橋が開通するまでは、対岸との交通は渡し舟が唯一の交通機関で、鵜殿には渡し場がありました。

鵜殿に生えるヨシは、高さが3mほどの大形のヨシで太く弾力性があり、古くから雅楽の篳篥(ひちりき)の蘆舌(リードに相当)として使用され、1945年ごろまでは、毎年100本ずつ宮内庁に献上されていたとか。

935年、紀貫之が土佐から帰京するおり「うどの(鵜殿)といふところにとまる」と『土佐日記』に記され、谷崎潤一郎の『蘆刈』の舞台が鵜殿のヨシ原とも言われています。

*『大阪』の「骸炭山」に似て、葦原へやってきた男の言葉でできているが、子供に呼びかけている言葉の具体的な内容にもかかわらず、どこか異った感じを持っている。それはたとえば、「きみの知らない遠い遠いところからをぢさんやつて来たんだ」とか「いいところだといいな」とかの詩句に読みとれる。小野の「葦の地方」は明らかに変質している。《安》

2017年5月13日土曜日

風景(九)

   風景(九)

暗い海と
入江のほとり
日本のこのしづかな原にも
鉄や電気や石油がきて休んでゐる。
あれは北亜米利加のどこだらう。
チャップリンの「モダンタイムス」で見た
あの葦原は大きかつた。
世界の大工場地帯の風景といふものは
お互ひになんとよく似てゐるのだらう。
地平は浮彫のやうに鮮明に
気候風土の靄がかからない
さびしさだ。


「モダンタイムス」(Modern Times)について淀川長治は『ニッポニカ』に次のように記しています。

アメリカ映画。1936年作品。38年(昭和13)日本公開。製作・脚本・監督・主演・伴奏音楽作曲チャールズ・チャップリン。タイトル・バックは時計の文字盤。現代の人間が時計に支配され、労働者はあたかも機械の一部分のごとくベルトコンベヤーから流れる商品に向かって同じ労働を繰り返す。人間性はすでになくなっている。

チャップリン扮(ふん)するチャーリーは気が狂い入院。退院するや職を失い、同じく父と死別の孤児の娘と協力して働き口を探す。娘がレストランのダンサーとなり、彼女の助けで給仕人になるが、歌を歌えと主人に命じられ、歌詞をカフスに書き込むが、飛び出した瞬間それを失い、世界に通ぜぬ即興の「ことば」で歌う。

サイレントに固執したチャップリンは、ここでも台詞(せりふ)のないサウンド版として発表したが、上記の一か所だけで処女作以来初めて画面から「声」を発した記念的作品。共演は彼の三度目の結婚相手のポーレット・ゴダード。資本主義社会への風刺、トーキーへの皮肉をも込め、工場、デパート、囚人生活、あらゆる現代社会をみせながら、その風刺は厳しい。

*チャップリンの映画「モダンタイムス」をみた小野は掘立小屋の背後に広がっていた広大な葦原に目を奪われる。
「わたしは、そのとき、世界には、どこへ行っても、気候風土の靄のかからない透明さと寂莫が支配しているところが一つあることを発見し、確認した」(『奇妙な本棚』)
 チャーリー・チャップリンがアメリカの工場地帯でみたもの、オルダス・ハックスリーが日本の工業地帯でみたもの、それと同じものを小野は大阪の葦原にみたわけだ。《安》


2017年5月12日金曜日

風景(八)

   風景(八)

遠いところで
泥海のはなに出た。
海からくる風にはかすかな硫酸銅の臭気がまじつてゐた。
煤煙のきれ目から
爬虫の鱗のやうに無気味な煙突の肌が見えた。
或は人の人生をもつてしても達し得ない
地球の裏側よりも遠いところに
私は出た。


「爬虫」類は、石炭紀に現れ、中生代(約2億5217万年前~約6600万年前)に繁栄した動物群で、進化の系統では両生類と鳥類・哺乳類の中間に位置します。皮膚を保護する鱗をもち、陸上に卵を産むことで、地上のほとんどの場所で活動できるようになり、形態が多様化しました。

現生種はカメ目、ムカシトカゲ目、トカゲ目、ワニ目に分けられますが、恐竜類や翼竜類などのようなすでに絶滅したものもたくさん含まれます。

体はふつう角質の鱗でおおわれ、ほとんど腺がありません。体の大きさは、体長約 35mmのヤモリの仲間から9mに達するアナコンダまでさまざま。現生のカメで最大のオサガメは,体重が 600kgをこえるそうです。

ヘビ類と一部のトカゲを除いた爬虫類は四肢をもつが,体側から側方に突き出てから下方に曲っているため、前進するとき左右にも体が揺れてしまい運動の効率は良くありません。けれど、ワニ類やトカゲ類は体を持上げてけっこう速く走ることができます。樹上性のニシキヘビやカメレオンは、尾を枝に巻きつけて体を保持し、移動します。

世界で 6000種余が知られ、温帯から熱帯にかけて広く分布しています。しかし食用あるいは皮革製品用に狩猟され,これまでに多くの種が絶滅しました。ごく一部の限られた地域を除き、人間に危害を加える有毒な種はほとんどないそうです。

*この作品ではじめて「爬虫の鱗のやうに」という表現があらわれる。現実の風景からずいぶん遠くまでやってきたことをこの一句はあらわしている。つまり「地球の裏側よりも遠いところに」出たわけだ。この遠くまでやってきたこともまた小野の風景詩を変質させずにはおかない。爬虫類とか羊歯とかいう語句がたびたびあらわれるようになる。《安》

2017年5月11日木曜日

硫酸の甕

   硫酸の甕

夕暮。
だれもゐない
道路のまん中で
七厘の火がおきてゐる。
上に豆炭を三つほどのつけて
骸炭の炎がかつかつとおきてゐる。
馬は首を垂れて黙々とまぐさを喰べてゐる。
長い汚い鬣が地にずつてゐる。

工場裏の塀ぎはに、
夥しい鉛室硫酸の空甕(かめ)が列んでゐる。

硫酸の甕は羨むべきかな


明治中頃から昭和30年代まで、硫酸瓶に代表される耐酸瓶を盛んに生産されました。なかでも有名なのが、山口県の小野田です。

明治22(1889)年、日本舎密製造会社(現日産化学工業小野田工場)が創業を開始すると、耐酸性の強いこの地の粘土を使った硫酸瓶の生産も開始され、硫酸の生産量が増えるにともない製陶業も飛躍的に発展しました。

昭和24年には26工場を数え、30数基の煙突が林立していたそうです。小野田には、近代化遺産に指定されているという、硫酸瓶を積み上げた硫酸瓶垣があります。

「鬣」(たてがみ)は、動物(特に哺乳類)の頸部や頭部に密集して生える長い毛のことですが、日本列島の在来種にたてがみを持つ動物が見当たらないことから、日本人にとってのたてがみは馬の伝来によって始まったようです。

*道路のまん中に七輪をおいて骸炭の火をおこしている路地裏の貧しいくらしの人たちの姿と、附近の大工場の塀ぎわに積み重ねられてある用を終えた硫酸の空甕とのコントラストに訴えを持たせたと小野は述べている。「硫酸の甕は羨むべきかな」の一行は反語であるが、単に論理上の反語ではない。「荒れれば荒れるほどいい」という一行と同質の意志をはらんだものである。このような意志的反語が多発されることで、小野のいわゆる風景詩はやがて変容する。

2017年5月10日水曜日

風景(七)

   風景(七)

高いところで
大きな一枚硝子ががたがたゆれる。
ときどきごうという底唸りを発して
外には風が吹き荒れてゐる。
向ふの葦原や
河口あたりはたいへんだらうに
煙は地平にこもつて動かない。
ふしぎにしづかな下界のながめだ。
ただ建てこんだ屋根々々の狭間に
わづかに赫い地肌をあらはした原つぱがあつて
一匹の犬がそこにゐるのだ。
それはあまりに遠くつて悲しいが
多分投げられたゴム毬かなんかを追つかけるのだらう。
実に愛そのもののやうな
可愛らしい跳躍をやつて
家かげから駆け出し
駆けもどるのが
見えた。


長い家畜化の歴史のなかで、犬はいろんな分野にわたって人間の生活の手助けをしてきました。この犬が、どんな目的で飼われているのでしょうか。

生来、警戒心が強いので、たいていの飼い犬はは知らない人が侵入してくると吠えたてて、番犬の役目を果たします。「建てこんだ屋根々々」のどこかで飼われている、そんなごく普通の番犬でしょうか。

第1次、第2次世界大戦では、シェパード、エアデールテリア、ドーベルマンなどが軍用犬として伝令、偵察、歩哨などで活躍したそうですし、犯人追跡や物品鑑別のために1937(昭和12)年には日本でも警察犬が誕生しています。

*ふしぎにしずかな「葦の地方」のまんなかの一匹の犬が生々と書いてある。「風景」と題するこれらのいくつかの作品には人間があらわれない。「人影なし」だ。それだからいっそう犬の動作が生々としていて、むしろ悲しい。《安》

2017年5月9日火曜日

風景(六)

   風景(六)

風は荒く
地は凍つてゐる。
引込線の道床は赤錆び
ところどころに
まだ莎草(はますげ)の類が根を張つてゐる。
今日も海の方に
あのへりだけが耿々と耀いてゐる雲があつていかにも寒さうだ。
線路にはタンク型の煤ぼけた貨車が数珠つながりになつて停止してゐる。
悉く濃硫酸や二硫化炭素液である。


「莎草」(ハマスゲ)=写真、wiki=は、カヤツリグサ科の多年草で、コウブシまたはクグともいいます。日本では関東地方以西の本州、四国、九州の海岸の砂浜、河原や日当りのよい原野に生息します。細い地下茎が横に長く這い、その先端に塊茎を生じます。稈は塊茎から直立し、高さ 20~30cm、基部に数枚の葉を叢生します。葉は線形で光沢のある深緑色。夏から秋にかけて茶褐色の花序を出します。塊茎からひげ根を焼いて取去り、乾燥させたものを香附子 (こうぶし) と呼んで、通経などの婦人薬として用いられます。

濃度の高い硫酸(質量パーセント濃度が約90%以上)を「濃硫酸」といいます。市販の濃硫酸は96〜98%程度のものが多く、おもに工業用品、医薬品、肥料、爆薬などの製造や、鉛蓄電池などの電解液に用いられます。国内最初の硫酸製造工場は、1872年5月、大阪市北区天満にある大阪造幣局に設置されました。貨幣に利用する金銀合金の分離精製、および円形の洗浄に用いるためです。

「二硫化炭素」は、炭素と硫黄の化合物。水分や揮発分を除いた木炭と硫黄を850~950℃で反応させて製造します。硫黄、白リン、ヨウ素、樟脳、樹脂、ゴム、油脂などのよい溶媒で、ビスコースレーヨン、四塩化炭素、ゴム加硫促進剤、農薬、キサントゲン酸塩の製造に用いられます。有毒で中毒症状をおこすことがあり、蒸気は空気と混合すると爆発しやすい性質があります。

*莎草(はますげ)と濃硫酸・二硫化炭素液の対置考えていたと小野は述べている。見据える視線の強さが作品の方向を明確に読者に指示している。

2017年5月8日月曜日

風景(五)

   風景(五)

家々は
いつ建つのか知るよしもない。
吹きつさらしの荒漠とした中に
それは早くも煤ぼけ古びてゐる。

海は暗く深くそして濁つてゐる。
海を見てゐると
私はなんとなく賭にかつたやうな気がする。

「(2)防空上都市内近接地を含めたる地域に工場の分布と大工場の配置を計画化すること――
精神の書を見るごとく
私はそれを見た。


戦前の国土政策に関連する法律としては、当時から工業化に伴う都市化に対応するための1888(明治21)年の東京市区改正条例や、1919(大正8)年の都市計画法が挙げられます。それは、大都市の人口増大に対応して社会施設を整備補強しようというする対処療法的なものであり、人口流入を規制したり過大都市の再開発を図ろうとするものではなかったようです。

日本本土の「防空」については当時、陸軍が重要都市、工業地帯を主体とする国土全般を受け持ち、海軍は軍港、要港や主な港湾など関係施設に対する局地防空を担当していました。仮想敵国は、大陸での決戦に主眼を置く陸軍はソ連を警戒しており、洋上での艦隊決戦が基本戦略の海軍はアメリカを最大の敵とみなしていました。

1937年4月に防空法が制定され、改正を重ね、防空壕の建設や空襲時には疎開などの民間防衛が実施されました。
航空機の来襲(空襲)によって生じると想定される被害軽減のため「軍以外の者」がおこなう「灯火管制、消防、防毒、避難及救護並ニ此等ニ関シ必要ナル監視、通信及警報」の8項目を「防空」と定義されています。

*この詩について伊藤信吉は次のように述べている。
「この詩には人をギクッとさせるものがある。これは詩の後半の部分で精神と物質との関係を、時代のモラルの問題として提出しているからである。その内容や詩的方法においても、情緒的なものの一切を排除しているからである。この詩の構成は工業施設分散計画のそのプランよりも緻密であり、詩におけるリアリズムの一典型を成している」(『詩のふるさと』)
 「賭にかつたやうな気がする」という気持は前作の「荒れれば荒れるほどいい」という一行の気持とほぼ同じものであって、「真ならざる姿」に真実の姿を見てやろうと腰を落ちつけたところなのだ。「精神の書を見るごとく」の一行には当時の小野の屈折した、だがとぎすまされた心情がにじんでいるようだ。

2017年5月7日日曜日

風景(四)

   風景(四)

ここは
もうどんなに
荒れてゐても
燻んでゐてもいい。
とつくにの海や街と
もはや寸分見分けがつかなくなつてゐたつていい。
見分けがつかなくなつてゐればゐるほど
それだけいい
枯葦が鳴つてゐるのも
極めて自然だ。
煙の中の
あの大きな夫婦煙突だつて
想ひ出してごらん。
どこかで見たことがあるだらう。
ここはもうどんなに荒れてゐてもいい。
荒れれば荒れるほどいい。
昔、オルダス・ハツクスリーと云ふ英吉利の詩人が
汽車の窓から
このあたりを見たことがある。
物凄い雨の日だつた。


「とつくに」(外つ国)は、外国、異国。

「夫婦煙突」というと、2本の大きな煙突は、炭坑節で「あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ」と歌われた、筑豊の二本煙突(福岡県田川市)=写真=を思い出します。かつてここには、筑豊の主要炭鉱として栄えた三井田川鉱業所伊田坑がありました。煙突は1908(明治41)年3月に完成しました。第1煙突、第2煙突とも、高さは45.45メートルで、現存する明治期のものとしては最大級だそうです。

英国の作家「オルダス・ハツクスリー」(1894-1963)は、サリー州ゴダルミング生まれ、医学を志すが、失明状態となり断念。風刺小説「クローム・イェロー」(1921)などで英国戦後派の作家としての地位を確立し、1923年イタリアに移住。1928年音楽の対位法を小説に導入した「恋愛対位法」、1932年にはアンチ・ユートピア小説の傑作「すばらしい新世界」を発表しています。1938年米国に眼疾治療のため移住し、1932年には、東西の神秘主義に関心を示し「幾夏を過ぎて」を発表、ほかに評論や旅行記などを多数書いています。

*関東大震災後の日本を訪れたオルダス・ハックスリーは、『東方紀行』のなかで神戸に上陸して大阪を通過したしたときのことを次のように書いている。
「われわれは汽車に乗り込んだ。そして二時間ばかりの間はぼんやり見える丘に囲まれ、工場の煙突の林立している灰色の田舎をひた走っていた。数哩ごとに、まばらな煙突の林はしだいに増して森となり、その脚下には、樹の根本の毒茸の群のように、木造の小屋の一塊を囲らした日本の町があった。これらの茸の群の最大のものが大阪なのだ」。
 小野はこれを読んで自分よりも何年も前にイギリスの一作家が「葦の地方」を発見していることを知って驚いた。さらに自分のと同じ眼で「葦の地方」を見たこのイギリス人作家の「日本の未来は、他のあらゆる国と同じく、その真ならざる姿にかかっている」という言葉に強い衝撃を受けた。ハックスリーのこの言葉に関して小野は次のように述べている。
 「この『真ならざる姿』とは何でしょう。それはつまり桜とか富士山とか日本精神とかいうものではなく、一言にして云えば、物そのものの非情さであります。日本の未来がこれにかかっているということはなんと痛烈な予言だったでしょう。私の詩に屡々現出する重工業地帯の荒廃した風景は、即ちこの物の非情さの幻で影のようなものであって、私はそれをお目出度い精神主義に対置さし、『真ならざる姿』に真実の姿を見ることに一種の爽快さをおぼえました」(激動から精神へ)。

2017年5月6日土曜日

大葦原の歌

   大葦原の歌

泥溝(どぶ)は
川にながれ
川は海に入る。
葦は穂波をうつて
街の周辺に押しよせてゐる。
雨水の浸みこんだ電柱は
乾きもやらず
葦切が啼く広いさびしい道が
地平につづいてゐる。

  或る日
  街の屋根から
  小さな細い一本の煙出しが
  海の方を見て云つた。
  きみのところはなんとしづかなんだ。
  陽が照つてゐるのに
  洗濯物も干さない。
  かまはないの。

海の方には
巨大な煙突がななめに重なつて
煙を吐いてゐた。


いよいよきょうから有名な第4詩集『風景詩抄』の詩に入ります。『風景詩抄』は、昭和18年2月15日湯川弘文堂(大阪)から発行されました。定価1円50銭。全部で87篇が収められています。扉には、レオナルド・ダ・ヴィンチの「瞳は精神よりも欺かれることが少ない」という言葉があります。

「葦切」(よしきり)は、「Acrocephalus」属の鳥の総称。ユーラシア、アフリカ、オーストラリアに分布し、渡りをするものが多い。日本には、夏鳥としてオオヨシキリ=写真、wiki=とコヨシキリが分布します。オオヨシキリは体長18cm、コヨシキリは14cmほど。一般に「ヨシキリ」あるいは「ギョウギョウシ(行々子)」とよばれるのは、葦原に生息しているオオヨシキリですが、葦原周辺の草原にすむコヨシキリも混同されていることもあるようです。

*『大阪』冒頭の詩「早春」と同様この詩集への一種の序詞である。「早春」同様の技巧の冴えでもって読者を「葦の地方」にひきずりこむ。だが両者を並べてみると、「早春」にはある風景をみている生理的視線を感じるが、「大葦原の歌」ではいささかおもむきが異なり、内と外とを同時に見るような、見ると見ないとを同時に捕えるような、複合的構造的視線を感じる。これはまさに二つの詩集の違いであるといっていいだろう。《安》

2017年5月5日金曜日

或夏の真昼の歌

   或夏の真昼の歌

やゝ天に近く
山国の陽は翳る。
どす黝い樹々の簇葉の熱気の中
全山の蝉鳴きしきり
巨砲覆はれて山間をゆく。
見よ、なんぢの砲なり。
蜿蜒としてしづかにいま郷国の鉄路を通過するは。
野には壜刷毛を立てたるが如く雑草蔓延し、鬱然として砂をかぶれり。


「簇葉」(そうよう)は、群がって生える葉っぱ。中勘助の『島守』に「我がちに日光を貪る木木の簇葉は美しい模様を織りだして自然の天幕となり、ところどころのすきまからはきれぎれの空がみえ、その小さな空を横ぎって銀いろの雲がゆく」とあります。

「蜿蜒」(えんえん)は、「蜿蜒長蛇の列をなす」などと、蛇がうねりながら行くさま。また、うねうねとどこまでも続くさまを表します。

「壜刷毛」(びんはけ)は、瓶のなかで使うような、小さくて繊細なハケのイメージでしょうか。

*力感あふれる佳作。巨砲をして語らせ、雑草をして語らせる方法が見事。砂をかぶった雑草がうすっぺらい比喩に堕さぬ骨格をそなえている。《安》

2017年5月4日木曜日

冬の夜の歌

冬の夜の歌 ――自分のことは忘れよ、各自の生活を励め――魯迅

夜更けて
公園を通り抜けた。
あの坂を登つていつた。
靄が一ぱいたちこめてゐた。
地を葡ふてどこかへ吸ひこまれてゆくやうに。
すずかけや、にせあかしやの並木もしづかに濡れてゐた。
生暖かい冬の靄の中に光の輪がぼうつと汗ばんで、それがとびとびにいくつもいくつも浮かんでゐた。
遠くに吼えるやうな汽笛がながれる。
日本の寥しい民衆公園もいまは夜だ。
暗い木立の中に 雀たちだけまだ起きてゐてバサッバサッと枝葉をゆする気配がハツキリきこえた。


「魯迅(ルー・シュン)」(1936-1881)=写真、wiki=は、中国の作家、思想家。本名は周樹人。浙江省紹興生まれ、4歳年下の弟に周作人がいた。中流から凋落した周家の長男として育ち、早くから生活の苦しみを味わいます。人情のはかなさを知り、世間の人々の真の姿を見る思いがしたそうです。

18歳のとき、南京の江南水師学堂(海軍養成学校)に入学り、3年後の1902年に日本へ留学します。明治末期の日本で欧州文芸の新鮮な息吹に触れ、日露戦争後の日本文壇の活況にも刺激されることになります。また、ドイツ語を学んで、世界の文学を広く読みあさりました。

1909年、帰国して間もなく辛亥革命が勃発し、清朝は滅びます。しかし魯迅は革命後の旧態依然たる現実に幻滅し、沈黙と寂莫の日々に耐えねばなりませんでした。この時期に中国の歴史と民族に対する思索と内省を深め、新文化運動のさなかで発表された『狂人日記』(1918)、『阿Q正伝』(1921~22)など、中国社会の病態を鋭くえぐる作品に実を結びます。

その後も厳しい言論統制のもとで果敢な文筆活動を続け、社会の暗黒面と権力者に挑む多くのエッセーや雑文を書きました。魯迅の文体は「匕首のように洗練され,寸鉄人を殺し、一刀血を見る」と評されますが、一方で、論敵をとことん追いつめ、寛容を拒む作風は、権威主義に堕する危うさを潜めているという指摘もあります。「彼らを怨恨させておこう、私はまた一人もゆるすまい」というのが「辞世」だったとか。

*「わたしいつか冬の真夜中にこの天王寺公園を通りぬけたことがある。そのときも靄が一ぱい立ちこめていて、その靄の中にぼおっと光の輪がとびとびにいくつもいくつも浮かんでいた。」「わたしは実際に、そのとき、この深夜の公園の中で、中国の大作家である魯迅が残した言葉を反芻し、ここで云われている各自の生活の生活とはいかなる意味かということを考えた。」(『奇妙な本棚』)
 その何年かのちのある夏の朝、小野は同じこの天王寺公園に、戦闘帽、国民服、ゲートル巻、リュックサック姿で立つことになる。徴用令がきたのだ。同じようないでたちの人々と訓練所に入り、それから造船所に行くことになる。
 最後のところにでてくる雀は小野の詩によくでてくる鳥だ。葦が風景でありものであり客体であるとすれば、雀は小野にとって血がかよったもの、心のようなものであり、主体であるといえる。『火呑む欅』の「群雀」とか『垂直旅行』の「雀」とかで小野の雀は見事な展開をみせている。《安》

2017年5月3日水曜日

骸炭山

   骸炭山

   (一)

錆びついた針のような葦だ。
なんとなく人をよせつけない。
白衣が二つ風に吹かれてゐる。
ときどき顔をあげてこちらをうかがつてゐる。
どこをどう廻つてゆけばいゝのかわからなくなつた。えらい場所(ところ)へ来てしまつた。
前の泥溝(どぶ)川に樺色の寒さうな夕焼が映つてゐる。
そのまゝ動かない。

   (二)

ああ急に暗くなつてきた。
夕闇にヌツと黒い大きな影法師。
どの煙突もどの煙突も気のせいかかすかにワーンとうなつてるやう。
川向ふに誰かが立つてあたしたちの方見てゐる。
道に迷つたのかしら あのひと。
ね。もつと拾ふの?
もうこれつ位で止さうよ。
寒いわ。


「骸炭」、すなわちコークスは、石炭を高温乾留して得られる、多孔質で硬い炭素質の固体のこと。火つきは悪いものの無煙燃焼し、火力は強く、製鉄その他の鋳物やカーバイド製造の原料、燃料などに用いられたいます。

ですから「骸炭山」というのは、石炭の採掘に伴って発生する捨石(ボタ)の集積場であるボタ山を連想すればいいでしょうか。

鉱山で採掘された鉱石のうち、資源として使えず廃棄する岩石などの部分を捨石、俗称でズリといいます。ズリは特定の場所に集められて捨てられますが、長年にわたり捨て続けているうちにズリは積み上げられて、やがて山になります。九州の炭坑でズリはボタと呼ばれているのです。

ボタ山・ズリ山は鉱山保安法で捨石集積場と呼ばれます。捨石集積場の比高は数十mに及び、崩壊しやすいのが特徴です。また、石炭分が多く含まれることがあるため、自然発火することもあります。ボタ山は、炭鉱閉山後は「負の遺産」として位置づけられる一方で、日本の近代化を支えた石炭産業の象徴でもあるのです。

*二篇で一対となっている。ここへたどりついた男も、ここで骸炭を拾っている子供たちも、その影のなんと淡いことか。そのうえ、風景さえも淡い。ただ、どうしようもないほど、泥のように濃く影を落しているものこそ、小野が発見した「葦の地方」の後輩そのものである。《安》

2017年5月2日火曜日

北港海岸

   北港海岸

島屋町 三本松
住友製鋼や
汽車製造所裏の
だだつぴろい埋立地を
砂塵をあげて
時刻(とき)はづれのガラ空の市電がやつてきてとまる。
北港海岸。

風雨に晒され半ば倒れかかつたアーチが停留所の前に名残をとどめてゐる。

「来夏まで休業――」

潮湯の入口に張り出された不景気な口上書を見るともなく見てゐると
園内のどこかでバツサバツサと水禽の羽搏きがした。
表戸をおろした食堂、氷屋、貝細工店。
薄暗いところで埃まみれのまゝ越年する売残りのラムネ、サイダー、ビール罎。

いまはすでに何の夾雑物もない。

海から 川から

風はびゆうびゆう大工場地帯の葦原を吹き荒れてゐる。


大阪は古くは難波津とよばれ、港とともに発達してきました。港湾としては、1868(慶応4)年に開港。江戸期には、北前船などの寄港地として栄えました。

工業港としての性格が強い北港、天保山付近の築港、フェリーターミナルをもつ南港の三つの区域に分けられます。

1929年(昭和4)7月25日に第二次修築工事にとりかかり、北港、南港の建設も進められ、1937~1939年には戦前の最盛期を迎え、取扱貨物量日本一を誇りました。

*「ほんとうはこれは大阪の周辺でなくてもかまいません。川崎でも鶴見でも芝浦でも、或は洞海湾にのぞんでいる北九州の工業地帯でもよろしい。日本でなくてもアメリカの工場地帯でもよい。大阪の工場地帯の風景を写実的に歌うことが目的ではないからです。でありますから、『北港海岸』という詩を読んだ大阪の読者に、ああこの詩はあすこの工業地帯を歌ったんですね、と納得されたところで私は少しも嬉しくはありません。むしろこれは一体大阪のどこです。こんなところが大阪にありますかと云われた方が、作者は愉悦を感じるでしょう。」(「激動から秩序へ」)
 このような意図はこの詩集『大阪』ではまだ充分になしとげられたとはいえない。次の詩集『風景詩抄』を待たねばならない。《安》

2017年5月1日月曜日

明日

   明日

古い葦は枯れ
新しい芽もわづか。
イソシギは雲のやうに河口の空に群飛し
風は洲に荒れて
春のうしほは濁つてゐる。
枯れみだれた葦の中で
はるかに重工業原をわたる風をきく。
おそらく何かがまちがつてゐるのだらう。
すでにそれは想像を絶する。
眼に映るはいたるところ風景のものすごく荒廃したさまだ。
光なく 音響なく
地平をかぎる
強烈な陰影。
鉄やニツケル
ゴム 硫酸 窒素 マグネシウム
それらだ。


「イソシギ」=写真、wikiから=全長20cm。喉や腹が白く、頭から背、翼は緑褐色で、胸の脇は灰褐色をしています。翼をたたんだときの翼角に白色が食い込むように見えます。翼を震わせるような飛び方をするときなど、翼を広げると上面に白い帯が現れます。

湿地や泥地の虫や小魚を食べて暮らしています。「チーリーリーリー」と細く特徴のある声でさえずります。歩くときに尾羽を頻繁に上下に動かすのが特徴です。和名は磯鷸、属名Actitisは古代ギリシャ語で「海岸に住む」の意があるaktitesに由来しますが、日本では淡水域に多く見られ、海岸で見ることはあまり多くはないようです。

大阪を中心に、西宮、神戸、堺、和歌山の大阪湾岸から茨木、守口などの内陸にまで広がる広がる阪神工業地帯は、明治期には綿糸や綿織物、メリヤスなどの繊維工業、肥料、製粉、製紙、マッチ工業が盛んでしたが、第1次世界大戦を契機に重化学工業が発達して総合工業地域となり、戦前、日本最大の工業地域となっていました。

「重工業原」というのはまさに十三郎ならではの言葉です。

*さきの「葦の地方」では絶滅するノジギクが圧倒的な巨大な想像を絶するものに立ち向うモメントとなっていたが、この作品では、想像を絶する荒廃に立ち向うモメントは「明日」という題であるだろう。この作品は「葦の地方」と表裏をなしている。