2017年6月30日金曜日

   橋

APカメラマン、マツクス・デスフオー作「平壌の避難民」(1951年ピユリツツア写真賞)を見て

ひらめき
旋回し 反転し
落下し また直上し
天空を
縦横十文字に
飛び廻つている一コの眼球が
びゆつと地上寸尺を擦過して
弾ねあがろうとしたとき
猛烈な速力で風をきつている宇宙の大風車に
矢になつて
突きささつた。
天地が一ゆれして
静止したところ
その真正面の空間に聳え立つたのは
爆破された大同江の鉄橋だ。
曲りくねつたアーチ。
たれ下つた鉄骨。
巨大な蟻塚のようなものが
高く真赤に
東洋の夕陽に映え
眼をこらせば
その上を二列になつて
おびただしい難民の群が動くともなく移動している。

無辺の天に
弾ねかえらんとして
眼はその場に
釘づけになつた。


日本の敗戦後、北緯38度線によって南北に分断された朝鮮半島では、1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を突破して南下、以後、53年7月27日の休戦協定調印まで朝鮮戦争が続きました。

韓国軍を釜山(プサン)まで追い詰めた北朝鮮軍は、米軍主体の国連軍の仁川(インチョン)上陸で中国国境の新義州(シニジュ)まで敗走します。その際、中国の義勇軍が参戦し、韓国軍・国連軍を退却させました。

中国軍は、1950年12月4日に平壌(ピョンヤン)を奪還し、1950年12月中旬までに、北朝鮮のほとんど全地域を掌握しました。

1950年12月4日の戦闘で、平壌を流れる大同江(テドンガン)の鉄橋が爆破される場面を、朝鮮戦争を取材していたAP通信のカメラマン、マックス・デスフォー(Max Desfor)が撮影=写真、wiki=し、翌年のピューリッツァー賞に輝きました。

この写真にはまさに「天地が一ゆれして/静止したところ/その真正面の空間に聳え立つたのは/爆破された大同江の鉄橋だ。/曲りくねつたアーチ。/たれ下つた鉄骨。/巨大な蟻塚のようなものが/……/眼をこらせば/その上を二列になつて/おびただしい難民の群が動くともなく移動している。」様子が写し出されています。

朝鮮戦争は、以来戦闘は38度線沿いに続けられ、休戦協定によって38度線と斜めに交わる軍事境界線(休戦ライン)が設定された。これが今日の南北の事実上の国境線となり、南北の分断を固定化した。

*この作品を書いたときのことを小野は次のように書いている。
「それは北鮮軍が破竹の勢で南下しつつあった朝鮮戦争もまだ初期のころであった。ある朝、わたしは新聞で、マックス・デスフォーというAPのカメラマンが撮った『平壌の避難民』という写真を見た。報道写真として掲載されたているのでなく、学芸欄のコラムみたいなところに小さく出ていたので、この1951年のピュリッツァ写真賞を獲得した作品も、うっかりすると見過してしまうようなものであったが、わたしの眼は食いいるように小さな写真にひきつけられたのである。そこで、起きぬけに、二階の書斎にかけ上って、写真とにらめっこしながら一気にこの詩を書きあげた。相手はアメリカの報道カメラマンが撮影した一枚の写真である。しかるに、それはわたしを奇妙に興奮させた。想像力はそれをとっかかりとして、さらに視角を変え、おそらくこのAPカメラマンの予想もせぬだろう方向に無限に拡大して行った」(『奇妙な本棚』)
 この作品にあっては、まず「眼球」の激しい運動と突然の静止がわれわれに衝撃を与える。「眼」が見たものは、やがてゆっくりと迫ってくる。その意味でこの作品は「舟幽霊」と奇妙に似たところを持っているのに読後気づくだろう。

2017年6月29日木曜日

大怪魚

   大怪魚

かじきまぐろに似た
見あげるばかりの
大きな魚の化物が
海からあげられた。
おきざりにされて
砂浜には人かげもない。
ひきさかれた腹から
こやつは腹一ぱい呑みこんだ小魚を
臓腑もろとも
ずるずると吐きだして死んでいる。
その無気味さつたら。
おどろいたことに
その小魚どもがどいつもこいつも小魚を呑みこんでいるのだ。
海は鈍く鉛色に光つて
太古の相を呈している。
波しずかなる海にもえらい化物がいるものだ。
ひきあげてみたものの
しまつにおえぬ。
生乾しのまゝ
荒漠たる中に幾星霜。
いまだに
死臭ふんぷんだ。


16世紀に活躍した現在のオランダの画家、ブリューゲルの「大きな魚は小さな魚を食う」=写真、wiki=と題した絵は、1556年に下絵が書かれ、翌年コックがそれを版画にしました。テーマは、当時のフランドル地方でよく知られていたことわざで、人間社会の弱肉強食を投影し、民衆に強く訴えるものがあったのでしょう。

巨大な魚が大きな口をあけて小さな魚を吐き出し、大きな魚の腹には小さな魚が詰まっている。鎧兜をまとった人がナイフで大魚の腹を裂くと、中からまたたくさんの小魚が踊りだしてくるのです。驕れるものはいつかは自らが迫害される立場に立つことを表わしてるのでしょうか。

そして、小舟に乗った父親が子に「あれをごらん」と指さしています。絵の右端には、「エビでタイを釣ろう」としている道化がいます。左端では、足の生えた魚が魚をくわえて一目散にその場を離れていきます。利をむさぼる者たちばかりの世にあって、魚がゆうゆうと空を飛んでいます。

*この作品の出発点には二つのことがらがある。「この詩を私に書かせた直接の動機は、日本の政治の腐敗、眼にあまる政治家や官僚たちの汚職沙汰であります。それに対する怒りというよりも、はげしい嫌悪が私にこのような詩を書かせたのです」(『工作者の口笛』国文社「ダブルイメージ」)。これがその一。

「私のこの詩のバックには、何をかくそう、このブリューゲルの原画によって、ジェローム・コックが版画にした悪夢の奇々怪々な幻想絵画のイメージがあります」(同書)。これがその二。

だがわれわれはもちろん出発点その一も出発点その二も、知らなくってもいいのだし、忘れてしまってもいいのであって、むしろ出発点に足をとられて、それだけのことしかこの詩から読みとれないとしたら困ったことである。

小野自身「見あげるばかりの大きな魚の化物が、ただ汚職政治家共を意味し、またそれがどんらんな資本家の太鼓腹のイメージをよびおこしても、もしそれがゴヤの『夢の妄』やブリューゲルの絵に見るような、人間性の暗い所で結ばれる超現実的ともいうべき無気味な夢につながらなければ、私のこの詩は決して生れなかったでしょう」(同書)と述べ、また別のところで「私が気になるのは、この詩が一篇の幻想絵画的な詩として、私自身が半ば造型して放り出したイメージの後半部を読者が各々の想像力によって補い、一つのものにしてくれたか、またそれだけの力をこの詩が持っているかどうかということである。(『現代詩手帖』創元社)と述べている。《安》

2017年6月28日水曜日

舟幽霊

   舟幽霊

深夜の日本海に
長鼓の音がする。
犬の吠え声がする。
陰にこもつて巫女歌(のれからく)のごとくだ。
見ればかなたに
石油ランプをともして
大きな筏がたゞようている。
筏の上には田があり畑があり
泥でかためた家や
鶏小舎なども見える。
それらは暗い夜のうねりにのつて
ぼうばくとして果しがない。
どこにゆきつこうとするのか。
その巨大な筏は
浮島のように陸をはなれて
あてなく深夜の海上を漂流しているのだ。
禿山も見える。
白いかさゝぎが舞つている。


「長鼓」=写真、wiki=は、朝鮮の大きな鼓形の太鼓。「杖鼓」ともいいます。中国の杖鼓を原型とする胴が細くくびれた太鼓で、右側の皮面は細い笞で、左側は左手掌で打ち鳴らします。日本の鼓を大きくしたような形で、松の木を削った胴に羊、馬、牛、犬などの革を張ります。

胴は全長約70~73cm、細腰部20~23cmが標準の一木作り。右側の皮は薄くて左側の皮は厚く、両面は真紅の木綿の紐で締められています。杖鼓は器楽、歌、踊りに欠くことのできないリズム楽器。宮廷雅楽や民間の俗楽、民謡、農楽、巫女楽などほとんどあらゆるタイプの音楽に用いられます。

「長鼓の音」「犬の吠え声」の比喩として用いられている「巫女歌」というのが、どういうものかはよくわかりませんが、巫女(みこ)が舞う神楽あるいは祝詞のようなものをイメージすればいいのでしょうか。

「かさゝぎ」は、カラス科の鳥。全長約45センチ。雑食性で、尾が長く、肩と腹が白く、ほかは緑色光沢のある黒色をしています。ユーラシア大陸と北アメリカ西部に分布。日本では佐賀平野を中心に九州北西部の人里近くにすんでいます。

*小野は「南北二つに割れた朝鮮を、その禿山や、かささぎの舞ってる田園や、悲しい巫女歌の音とともに、暗夜の日本海をあてどなく漂流する一そうの筏の上に乗せた」作品だと述べている。この作品にあたっては、イメージによって示された現実があるのではない。まず幻視がわれわれに衝撃を与える。そのさきに現実があらわれてくるのだ。だがそれはむしろ「読後」「詩後」のことといっていい。深夜の日本海をただよう大筏。小野でなくては書けぬ壮大な幻想である。《安》

2017年6月27日火曜日

こだまのニンフ

   こだまのニンフ

高い木々は
霧氷をあびたように白い。
そして背後の空は真黒だ。
木賊や羊歯の葉つぱのぎざぎざ。
らつぱ百合の大花冠
それらの花や葉つぱの影のいりみだれた中から
鳥頭人身の異形のものが首を出した。
それは絶対に人の眼にふれない
深山のこだまだ。

こだまは飛びおきたのだ。
風の音ではない。潮騒ともちがう。
あきらかにそれとわかる一つの楽の音が
そのときどこからともなくしずかにながれてきた。
なかほどに二度はいるあのぞつとする大太鼓。
こだまは己の耳をうたがつたがまぎれもないのだ。
まぎれもないそれは「君が代」の奏楽なのだ。

日本から相距る五百万哩くらいはあるか。
玄武岩の屏風でかこまれた
山の奥の奥の
木賊や羊歯のしげみの下の
その地下の
鍾乳洞の底にいて
人間どもから完全に姿を消しているこだまにそれが達するのだ。

鳥頭人身と化しても
きこえるのだ。

         「こだまのニンフ」――マックス・エルンストの絵


ここでいう「こだまのニンフ」というのは、マックス・エルンスト(Max Ernst)の1936年の作品「The Nymph Echo」=写真=をいっているのでしょう。

「マックス・エルンスト」(1891-1976)は、ダダ、シュールレアリスムの代表的な画家。ドイツのブリュールに生まれ,ボン大学で哲学と美術史を学んでいます。1914年にケルンで画家のアルプ(1887-1966)と出会い、1919年、互いに関係のない写真や印刷物を貼りあわせて意外な視像を現出させる〈コラージュ〉を試み、ケルンでダダ運動をおこします。翌年、ブルトンらと交友し、やがてシュルレアリスムに加わることになります。1922年パリへ移住し、詩人エリュアールとの共編《不死者の不幸》を出版。1925年には、目の粗い物体の表面に紙をあて鉛筆などでこすって視像をえる〈フロッタージュ(摩擦画)〉の技法を発見しました。

「木賊」(トクサ)は、山中の湿地に自生する常緑のシダ植物。茎は直立していて、中空で節があります。茎は触るとザラついた感じがして、引っ張ると節で抜けます。節のところにギザギザのはかま状のものがあって茎がソケットのように収まっていますが、このはかま状のぎざぎざが葉に当たります。

「鳥頭人身」というと、インド神話のガルダを前身とする、仏教の守護神、迦楼羅天(かるらてん)を思い出します。インド神話の神鳥ガルダが仏教に取り込まれ、仏法守護の神となりました。口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされる。ふつう鳥頭人身の二臂と四臂があり、龍や蛇を踏みつけている姿の像容もあります。

*この詩は第一詩集『半分開いた窓』の「野の楽隊」を想い出させる。「野の楽隊」できこえるのは「ケームリモミエズクモモナク」という楽隊の音楽であり、きいている「ぼく」はいくらもがいてもついついつりこまれて歩調が合ってしまうのだが、この「こだまのニンフ」では「君が代」の奏楽が日本をへだてること五百万哩の山中のこだまのニンフに達するというのだ。人間はありのままの現実や、ありのままの自然の進行に極度に退屈すると、「オルフェ」の死後の世界のガラス売りの男とか、「こだまのニンフ」という鳥頭人身の異形のものとか、そのようなものを見ると小野は書いている。ただおそろしく退屈することだけが必要だと書いている(『奇妙な本棚』)。これらの言葉のなかの「退屈」を「嫌悪」と置きかえてみると、この作品を支えているものが語られていることがわかる。「冬の海から」で「またもや」という一語で古い秩序のよみがえりを突いた鮮やかな手つきがこの作品においてみられないのはマックス・エルンストへのこだわりが逆目に出たのだろうか。《安》

2017年6月26日月曜日

冬の海から

   冬の海から

すでに
砲塔も
煙突もマストも
きりとられている。
しかしまだ三万九千噸の大戦艦の
赤さびた船体は
おびただしいかきやふじつぼに蔽われて水面下にある。
甲板には木製の防水壁が建てられ
舷側や艦底の浸水個所はげんじゆうに防壁でかこまれている。
あとは揚水ポンプを動かし
浮揚タンクを結びつける仕事がまつてるだけである。
準備完了!
波がしら白く立つ冬の海から
またもや巨大なる物のかたちが
浮びあがつてくる。


きょうから第7詩集『火呑む欅』に入ります。この詩集は、昭和27年11月、三一書房から発行されました。

「三万九千噸の大戦艦」というのは、おそらく戦艦「陸奥(むつ)」=写真、wiki=のことと思われます。「陸奥」は1921(大正10)年10月に完成し、戦前の学校の教科書に描かれるなど日本海軍の象徴として国民に愛されました。

大戦中は、戦地に赴かず温存されていましたが、1943年(昭和18)年6月8日、広島湾沖柱島泊地で原因不明の爆発事故を起こし、沈没してしまいます。乗員1474人のうち助かったのは353人だけ。死者のほとんどは溺死でなく爆死でした。

爆沈直後から海軍は再戦力化に向けて「陸奥」引き上げを検討していました。しかし調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されて諦めました。占領下の監視のため終戦直後には浮揚作業はできず、1948(昭和23)年になってから、西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始します。

しかしこのとき、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こって作業が中断されてしまいます。「はぎとり事件」とはどいういうものだったのか。それを知る手がかりとして、少し長くなりますが、1952(昭和27)年6月30日の衆議院本会議における当時の内藤隆・行政監察特別委員長の発言を引用しておくことにします。
     
 《国有財産管理処分に関する事件の第三に、山口県岩国市の沖になぞの爆沈を遂げた軍艦陸奥のはぎとり事件と称せられるものであります。

これは、西日本海事工業株式会社が、山口県知事の許可を得て、搭載物資たる燃料、食料品、繊維品、非鉄金属類の引揚げを企てたことに端を発するものでありますが、当時陸奥は、連合軍からわが国に返還されていなかつたので、極東海軍司令部から抗議が来たために、一時この計画は中止されたのであります。

その後、建設省が主体となり、あらためて搭載物件の引揚げ及び処分をその責任において実施することの許可を得たので、建設省にその実施監督を山口県知事に委任し、引揚げた物件は一般の返還軍需物資、すなわち特殊物件の処分方法により、政府の指示に従つて売却するということになつたのであります。

ここにおいて、山口県知事は、あらためて前述西日本海事工業と契約を結び、引揚げ作業が再開されたのでありますが、この作業継続中、朝鮮事変が勃発して、金属類の価格が暴騰し、また陸奥の艦体有体が連合軍からわが国に返還されるに至つたのであります。

今までは引揚げ許可を受けた物件だけが特殊物件として返還されたのでありますが、今度は艦体そのものも返還されたのでありますから、建設省の所管においての引揚げ物件の範囲、すなわち搭載物件は何ぞやということが問題となつて来たのであります。

大蔵省、建設省、山口県当局の見解は、艦と一体をなす機械類、裝備品は搭載物件ではないとしているのでありますが、会社側はこれをきわめて広義に解し、艦体をどんどん破壞して、重要機械類、裝備品を引揚げ、またこれを無断で処分してしまつたのであります。

しかるにかかわらず、山口県の監督の任に当つている係員は、県が搭載物件でないとしている物件の引揚げを黙認記し、また無條件に契約量を超過する引揚げを認め、火薬に対しても申請通りの数量の使用を許可しているのであります。

これは、県と会社とが共謀して、特殊物件の名のもとに国有財産を窃取横領したのではないかとの疑いも起りますので、本委員会はこの点を追究しましたところ、結局搭載物件に関する見解の相違と、県がこの仕事を一係長にまかせ切りであり、この係長がまつたく傀儡的存在となつて会社側に翻弄されていたことが判明したのであります。

なおこれに加うるに、建設省が三回目の期間延長に際し、何ら実情を調査しなかつたことが、不正行為にさらに拍車をかけた結果となつたことも否定しがたく、中国財務局もまたその所管となりた後、單に一片の書類による警告を発しただけで、全然現地調査をしていないというように、行政官公署の事務懈怠が禍因をなしていることも否定できないのであります。

山口地方検察庁は、本年四月十五日、西日本海事工業社長武岡賢に対し、業務上の横領罪で起訴しておりますが、大蔵省、建設省、山口県当局は、損害の共同調査を遂げ、西日本海事工業に対し求償すべき責任があるというのが、本委員会の結論の一つであります。

なお、本件調査中、陸奥艦内には約一千柱と推定される多数の英霊と殉職者の尊き遺体が眠つていることが判明いたしましたので、関係官庁を証人として喚問し、英霊に対する事後の行政措置につき、その善処方を要求したのであります。遺家族多数より、委員会に対し、激励と感謝のり書状が参つております》

「陸奥」の乗組員の遺族たちは、それでも諦めることはなく、1955(昭和30)年5月には2度目の陸奥遺体引揚請願書を国会に提出。翌1956年には、浮田信家・元海軍中佐が遺族会代表宅を訪れ、「多くの軍艦が沈んでいるので陸奥だけを引き揚げるのは出来ない」旨を知らせますが、引き揚げ運動は粘り強く継続されます。

そして1970(昭和45)年、ようやく深田サルベージ株式会社の主導でサルベージが再開され、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収。1971(昭和46)年には艦尾の浮揚にも成功し、第4砲塔も引き揚げられて中から遺骨数体が回収されています。

2007年には、第6管区海上保安本部の測量船の探測機が「陸奥」の船影を捉えています。このころまでに7割程度が浮揚されたましたが、いまも艦の前部など一部はは海底に残ったままです。

ついでですが、「陸奥」の鋼材が、思わぬところで重宝がられているエピソードがあります。現代の製鉄では、溶鉱炉内の耐火煉瓦にコバルト60という放射性物質を含ませて、そこから出るガンマ線によって破損箇所を調べるシステムを取っています。

そのため、放射性物質の一部が鉄に混入してしまいます。しかし戦前に造られた「陸奥」の鉄材には、そうした放射性物質は含まれていんません。このため引き揚げられた「陸奥鉄」は、精密な放射線測定機の遮蔽材などに最適というわけです。

この詩を読んで、私は、次にあげる長谷川龍生の「理髪店にて」が頭に浮かびました。龍生は、十三郎の弟子筋にあたります。

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

新宿のある理髪店で
正面に篏った鏡の中の客が
そんな話をして剃首を後に折った。
なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
滑っている理髪師の骨のある手は
いままさに彼の瞼の下に
斜めにかかった。

*この詩についての村野四郎の懇切な鑑賞があるのでそれを引用しよう。
「戦艦の引き揚げ現場が、冷静で、即物的な『眼』によって克明に描きだされている。だが、こうして描き出された事物は単に視覚的な『光景』として在るに止っていない。それらは何ごとかをものがたっている。つまり、抒情の曇りを拒否した、これらの形象のイメージ(心象)は、その背後に明確な一つの論理のイメージを密着させている。形象のイメージが尖鋭だから、これにともなう論理のイメージも、いよいよその尖鋭度を増している。前半の部分、そこに描きだされているのは、水面下にある無残な大戦艦の細密な光景だが、その光景は直ちに、巨大なもの、狂暴なものの惨憺たる末路の心象を呼びおこし、つづいて、戦争というものの醜怪で悲惨な心象を読者の心によびおこす。後半の部分は、そうした怪物の巨大な形が引き揚げられて、徐々に水面へ姿を現わしてくる経過が描かれている。その叙述は極めて冷静な報告的記述だが、それだけにその情景は、いよいよ冷い切迫感を加えている。そしてこの切迫した光景のイメージは『またもや』という言葉をキッカケにして、突如として戦争復活の戦慄と恐怖のイメージを呼びおこすのである。……作者は、この作品において、このように音楽を拒否した冷静な詩の批評によって、逆に古い秩序のよみがえりを、きびしく批判しているのである。」(『鑑賞現代詩Ⅲ』筑摩書房)
 一度「またもや」という一句を抜いて読んでみてほしい。きわめて冷静に即物的に書きこまれたものだが「またもや」一句によって一気に動きだす。見事というほかない。

2017年6月25日日曜日

夜の海へ

   夜の海へ

人影もない
夕暮の海。
飛込台も遊動円木も低くなつた。
ほの暗い波間に見えかくれする真赤な浮標(ブイ)。
たぶん今日最後にそれを見たのはぼくだろう。
海は満々として
だれも知らない夜の海になる。


「遊動円木」(ゆうどうえんぼく)=写真=は、太い丸木の両端を鎖やロープでつるし、前後に揺れるようにしてあり、その上を歩いたり落し合いをして遊ぶ大型の遊具です。遊びを通して体を鍛えたり平衡感覚を養うのに役立つものとして、日本でも明治・大正を通じて学校教育制度の推進とともに普及しましたが、丸太の下敷きになってけがをするなどの事故がしばしば起こったため、現在ではほとんど見かけなくなりました。

「浮標(ブイ)」には、海底や何らかの構造物に係留されているものと、海流や風に流されていくものに大きく分けられます。前者は浅瀬や岩の位置の標示などの海難防止や海底に設置された計器類の位置標示などに使われ、後者は海流の様子を調査するのによく用いられます。

「ほの暗い波間に見えかくれする」のは、どちらのタイプでしょうか。最近は人工衛星でブイの位置を観測することができるようになり、黒潮などの大海流にブイを投げいれて、それを追跡することによって黒潮の流路を探る試みがなされています。

「今日最後にそれを見たのはぼくだろう」という表現に、詩人の張りつめた心境がうかがわれます。

*新しい荒廃にむきあって身がまえしている小野の精神の緊張がうかがわれる。《安》

2017年6月24日土曜日

かもめ

   かもめ

夕暮。
橋の上から私は見た。
今日はなんという悲しい満ち潮だろう。
木片や汚物を一ぱいうかべて街の方へ逆流する川の水。
川すじを匐つて田園までさまよう灰色の大きなかもめたち。
海は嘔吐(もど)していた。


「かもめ」=写真、wiki=は、体がいくらか大きく、嘴が太く、足が長くて、翼が広めで長いカモメ亜科と、嘴も体も翼も細く、軽いアジサシ亜科とに分けられます。カモメ亜科の仲間は世界各地に広く分布し、おもに沿岸域に生息する全長25~75センチメートルほどの中形の鳥で、海岸線で打ち上げられた動物の死体を食べ、海上に出て魚類をとらえます。内陸で小哺乳類や昆虫類なども捕食します。他種だけでなく、同種の卵や雛を略奪して食べるなど多種多様なものを餌にしています。

飛翔力も高くて地上を歩くことも巧みですが、潜水することはできません。周年群れて生活し、沿岸の島や海岸砂丘、丘陵で集団営巣しますが、崖の棚や、内陸湿地の草の上、樹上に営巣することもあるそうです。2~3卵を産み、雛の養育で餌は、地上に吐き出してから与えます。非繁殖期にも海岸に群れ、採餌のときも、ねぐらをとるときも群れます。

「満ち潮」(high water)は、海面が上がりきった状態のこと。満潮や干潮は1日2回ずつ現れるのが通例で、その時刻は毎日平均約50分ずつ遅れます。ある地点での1日の干満は普通2回あって、満潮から満潮までの時間は平均すると12時間25分となるそうです。

主に月や太陽の引力の作用によるっと考えられています。特に、月の作用による太陰潮の影響が大きく、新月か満月のころ太陰潮と太陽潮が重なりあって大潮となり、上弦か下弦のころ小潮となります。

「匐」は、は(う)、あるいは、はらば(う)。

「海は嘔吐していた」という一行は印象的です。

*新しい荒廃にむきあって身がまえている小野の精神の緊張がうかがわれる。《安》

2017年6月23日金曜日

夕暮の川に沿うて

   夕暮の川に沿うて

川波は
岸にみちあふれていた。
ぎいぎいと間をおいて
しづかにきしる櫓の音がした。
夕暮の川に沿うて
眼の前を
白いコンクリート台地の
荒漠とした廃墟が移動していた。
礬土頁岩の大きな丘や
コークスの山は跡かたもない。
たゞ白々と光るあたりに
かつて何かがそこにあった方型の
大小無数の凹みが
口を開いていた。
あすこは何
ここは何と
人々が指さすのを聞いていると
風景はすべてある人間の名につながつていた。
だれも知るまい。
あの薄暗くなつた葦原の中ほどに
地面に向つて三十度の角度で掘り下げられた
一つの深い迷路(ラビリンス)があるのだ。
わが心のあるふしぎな願望は
たぶんさういう竪穴となつて
あすこに残つている。


「礬土」(ばんど)は、アルミナすなわち酸化アルミニウムのこと。天然ボーキサイトから抽出精製されます。高融点で化学的に安定かつ高い熱伝導性と電気絶縁性を持つため、ファインセラミックスのもっとも基本的な素材として、また、絶縁碍子(がいし)、IC基板、研磨剤、人工歯材など広い応用があります。ルビーやサファイアも着色不純金属元素を含んだアルミナ単結晶の一種だそうです。

泥が薄く層状に堆積した岩石を「頁(けつ)岩」といいますが、このうちアルミナの多いものが「礬土頁岩」(ばんどけつがん)です。礬土頁岩を一度焼いてアルミナ分を高めた、いわゆるバンケツは、乳白色や灰色をしていて、鉄分が多くなるほど赤みを増し、耐火物原料として利用されています。礬土頁岩入りのセメントは、耐火性に加えて強度の大きいセメントになるそうです。

「コークス」は、石炭や石油から生産される炭素を主要成分とする固体で、燃料、鉄鉱石の還元、炭素材料の製造などに用いられます。ふつうは石炭の高温乾留で得られるものをさし、石炭の低温乾留で得られるものは半成コークスまたはコーライトと呼ばれます。半成コークスは火つきがよく燃えやすい家庭用無煙炭として利用されてきましたが、いまでは石炭の低温乾留はほとんど行われていません。また、石油から得られるコークスは石油コークスと呼ばれます。

「ラビリンス」(Labyrinth)は、ふつう迷宮、迷路などと訳されますが、本来的にはクレタ型迷宮=写真、wiki=のような分岐のない秩序だった一本道を指していたようです。語源は、ギリシア語のラビュリントス(labyrinthos)。古代の著述家たちがエジプトなどの神殿や宮殿にあったとした複雑な構成の建物を指します。しかしその遺構は確定できず、むしろそれを象徴する文様が歴史的に意味をもち、今日の迷路パズルにもつながることになります。

古代の迷宮文様は、クレタ島、クノッソスの宮殿を舞台とする神話を背景として、呪符・護符としての意味をもっていました。クレタ王ミノスの妻パシファエと雄牛との間に生まれた牛頭人身の怪物ミノタウロスは、クノッソス宮殿にダイダロスが造ったラビュリントスに閉じ込められていたとされ、アテナイの王子テセウスが、クレタ王女アリアドネの手渡した糸の導きでミノタウロスを倒し、迷宮から帰還します。

*この荒廃はかつての重工業を裏がえしにしたあの「荒廃」ではない。これは人為的に破壊された「荒廃」の跡である。人為的にとはもちろん戦争によってということである。だが、この詩は後半「だれも知るまい」以下に力点がかかっている。新しい荒廃のなかを人間は動き出すのだし、小野の「あるふしぎな願望」もまだ残っているのだ。安藤次男はこの詩について次のように述べている。「『迷路』は現象的には忘れられた防空壕であろうが、作者の胸底の『迷路』は、子供が人に知らさぬ隠れ場を持つように、無用になったいまかえって生きている。それを作者は、〈心の傷痕〉とはいわないで、『ふしぎな願望』という」(『日本の詩歌』第20巻)《安》

2017年6月22日木曜日

タスマニヤ人参

   タスマニヤ人参

青黒い大きな鑵をきりつと切ると
タスマニヤの真赤な人参があらわれた。
私はそれを八つの皿に盛り分け
一片の代用パンをそえて食卓にならべた。
飢え渇えていた野菜だ。
それはわれらの血となり肉となるだらう。

      〇

米。
米はいまや一粒もない。
アメリカ中西部の力のある玉蜀黍を
鯨油でいつてばりばり喰う。
えらいものだ。
毎朝ばりばりやつてゐるが
小供たちは胃もこわさない。


「タスマニヤ」=写真、wiki=は、オーストラリア大陸の南にバス海峡をへだてて連なる面積6万平方キロ余りの島。かつては大陸と一体となっていましたが後氷期の海進で分離し、バス海峡が形成され、島となったとされています。 A. J.タスマンによって発見 (1642)されて以来、初期の航海者たちは長い間大陸の一部と信じられ、島であることが確認されたのは 1798年でした。

島の西部は高地で、西風を受けて降水量が多く、森林が発達。中央部の高原には湖が発達し、主要な河川が北東および南東へ流出して水力発電の水源となり、下流に河谷を形成しています。西部は鉱産資源開発、北部と南東部では農牧土地利用がみられ、ニンジン、ポテト、オニオンなども生産されています。

*救援物資の一つであったタスマニヤ人参の青黒い大きな缶をぎりっと切って、中から真赤なタスマニヤ人参があらわれたとき「日本の悲しい泥川の芽芹やしじみ貝は一ぺんに吹っとんだ。飢えかつえていた野菜がこういうかたちで眼前に現われたということにわたしは興奮した」と小野は書いている。《安》

2017年6月21日水曜日

   犬

犬が口を開いて死んでいる。

その歯の白くきれいなこと。


「犬の歯」は、歯は42本(21対)あり、32本(16対)の人や、28-30本のネコと比べると、顎が長いぶん歯の数もたくさんあります。人と比べて、切歯が上下各3本、前臼歯(小臼歯)が各4本と多く、後臼歯(大臼歯)は上顎2本、下顎3本と少ない。犬歯(牙)のほかに、裂肉歯と呼ばれる山型にとがった大きな臼歯が発達しているのも特徴です。この歯はハサミのように肉を切る働きをし、犬は食物はあまり咀嚼せずに呑み込んでしまいます。

敗戦の際、戦争に使われた軍犬は戦地に遺棄され、国内に無事に帰還出来たのは僅か数頭に過ぎなかったといいます。一方で、国内に残された訓練中の犬も日本軍の解体で行き場を失い、戦後の食糧不足の中、口減らしのため殺処分されたり、食料として市場に放出されるなど悲惨な末路をたどったようです。

敗戦直後、餓死などによって、犬さらには人間が「口を開いて死んでいる」光景を目にすることは、決して少なくはなかったのでしょう。

*この短い印象的な二行にしても例外ではないのであって、小野は自作解説で次のように書いている。「実は、これは犬ではなく、人間なのである。飢死した人間が口をあいて死んでいるのである。私は、敗戦直後、実際にそんな悲惨な光景を、駅の地下道などでしばしば目撃した。筵をかぶせてあったが、私は、詩の行為の上で、その筵をはいだのだ」(『現代詩鑑賞講座第一巻・詩とは何か』角川書店)

2017年6月20日火曜日

街で

   街で

  芽芹

女が芹を摑んできて売つている。
ぱらぱらとほぐして山に盛つて。
それはあまり遠くない郊外の
泥溝(どぶ)の中を取りつくしたという感じだ。
地平には大風車など見えない。
乾いた泥に
変色した原生虫(ユーグレナ)がこびりついているだらう。

   蜆

しじみもあんなに大きいのは
海と川の境にしかいないのだ。
夕波の白くくだける方に。
人は熊手や泥搔きのようなもので
 (すでにそれは巨人の機械力だ)
ごつそりさらつて持つてくるのだ。

  兎

アンゴラ兎が三匹。
妖婆の手籠の中にゐる。
おや、こゝはお伽話かな。


「原生虫(ユーグレナ)」、ユーグレナといえば、ミドリムシのことです。体内に葉緑体をもち、光合成を行うという点では植物ですが、体を包む細胞壁がなく、鞭毛で遊泳する点では動物ともいえる単細胞生物です。

多くは細長い紡錘形で、体の先端に貯胞とよばれる大きな穴があり、その底から長くて太い鞭毛が出ています。貯胞は収縮胞からの排水場で、物を食べる口ではないそうです。

世界で約150種ほどが知られ、湖沼、池、水たまりなどの淡水域に広く分布します。多くは、清水より有機物を含む汚れた水で生育します。とくに夏に大発生したとき、いわゆる“水の華”の状態になります。

「アンゴラウサギ」=写真、wiki=は、ウサギの一種。トルコのアンカラ地方が原産で、フランスで毛用種が作り出されイギリスでさらに改良されました。耳が短く、全身が12~15センチに達する柔らかく美しい毛で覆われている。

毛色は白色、灰色、黒色、褐色とさまざまですが、白色が毛用として好まれます。毛は年に3~4回採ることができ、毛糸や織物などに用いられます。

*やはり『奇妙な本棚』で述べているのだが、小野は芽芹を売っている女の手に河口の蜆を全部とりつくせるほどの巨大な熊手をもたせたり、兎を売っている老婆をお伽話の魔法使いにしたてあげたりしてみたのだ。小野はつづけて「例によってわたしは、見たままの現実から空想への次元の転移をやっているけれども、けっきょくのところそれははかない詠歎なのである」と述べているが、これは小野の「夢」の方法をあてはめるにも当時の生活感覚があまりに異常に小野をとりひしいでいたといえよう。《安》

2017年6月19日月曜日

冬の旅

   冬の旅

  夜の雲

夕霧になつても
つめたい大きな雲の峰はくづれなかつた。
榛原(はいばら)のへんで
頂から煙のやうに溶けていた。

  豊富な山

トンネルの入口に
斑のある山百合が一つ咲いていた。
水がもれている崖の
あんな高いところから押し出されて。

  みづうみ

雨中を
日本のみづうみに沿うて
汽車ははしつていた。
スタインの本だつたかな、ロブ湖。
ひよいとそんな言葉がうかんで
悲しかつた。

  暗い寒い田園の中を

深夜。
もう四時頃だらう。
その時まだ暗い寒い田園の中を
煌々として過ぎる
大宮殿のごときものがあつた。

  死

方四里。
真赤に枯れている松林を見た。
死はまさにかくあるべきだ。


「榛原」は、奈良県の中東部、大和高原の南端に位置する地域。平坦な地でも海抜300m前後あり、周囲の山は600〜800mに達します。榛原町は2006年から宇陀市の一部になりました。

「ロブ湖(ロブノール)」=写真、wiki=は、中国、新疆ウイグル自治区タリム(塔里木)盆地東端にあった塩湖。漢代、「塩沢」「蒲昌海」などと呼ばれ、その水が地下を経て黄河になると考えられました。19世紀末以来のヘディンやスタインらによる探検の結果、湖に入るタリム川、孔雀河の河道変化のために移動するとされて「さまよえる湖」といわれましたが、今日では湖域の移動は一定小範囲を超えるものではないという説が出されています。1960年代以降、両河川流域での灌漑による取水量の急増で湖への流入量が激減し、今日では塩殻におおわれた砂漠があるだけです。

「スタイン」(Stein,Sir Mark Aurel、1862-1943)は、ハンガリー生れのイギリスの考古学者、探検家。3回にわたって中央アジア探検を行ないました。第1次は 1900~01年でホータン付近で調査、第2次は 06~08年でさらに東に進み中国の新疆省各地を探検、トンホワン (敦煌) などにも足跡を印し、千仏洞を発見しました。第3次は 13~16年で、特に中国の甘粛省方面の探検をしています。多くの古文書の収集や遺物の発見を行い、古代における東西文化の交流や交通路の究明に大きな功績を残しています。第4次の探検を志しましたが、中国の官憲の迫害で実現できずに没しました。『セリンディア(Serindia)』 (1921) など、中央アジア古代史について多くの著書があります。

*これは買い出しの旅である。『奇妙な本棚』で小野が述べているところによれば、米・玄麦・薯・木炭などを買い出しに行ったときの行き帰りの汽車や電車の窓から瞬間的に見た五つの土地の風景が反映している。榛原は室生寺の近くの町でその先の伊賀上野が炭の産地であり、「日本みづうみ」は琵琶湖であり、深夜の「大宮殿」は奈良盆地の変圧所風景である。「スタインの本」は買い出しの行き帰りに車中で読んだ本ののなかの一冊である。福知山線の谷川駅へ米の買い出しに行ってやっと五升ばかり求めて帰りの窓からみた山腹の二・三本の杉の大木の枯死したありさまが方四里の松林の死である。これらの詩には、安東次男が云うように「飢餓感を覚えた者にのみ理解されうる」ものがたしかにある。たとえば「豊富な山」という題名、「豊富な」という形容詞は、以前の小野がみせたあの「夢」にまつわる語いではない。《安》

2017年6月18日日曜日

   道

道はひろく
地平につづいていた。
何かしらおそろしく重量あるものが
海へ向つたか海からきたかだ。

あの日は過ぎた。
割れた空から
淡いセピヤ色の照明がまつすぐに降りてゐる。
つけつ放し。天にはだれもいない。


きょうから第6詩集『抒情詩集』に入ります。昭和22年6月1日に爐書房(奈良)から発行されました。

扉に『詩論』211の「私が心に想像する詩の韻律は、詩をつねに『音楽』の状態と結びつけて思考する習慣から解放されていないものには感知することは出来ない。同時に、私の詩の読者が、私の書く詩の中に『音楽』を感じ、或は発見したとしてもそれを私は阻止することは出来ない」が載っています。

「セピヤ(セピア、sepia)色」は、JISの色彩規格では「ごく暗い赤みの黄」としされています。もともとギリシア語で頭足類のイカのことで、ふつうイカの墨から作られる絵の具の濃い茶色をさします。

イカの内臓分泌腺のなかで作られる黒褐色の分泌物(イカ墨)を乾燥させて、古くから顔料として使われてきました。現代では人工的に作られますが、モノクロの古い写真が色あせて茶色っぽくなったことから、郷愁をさそう古い情景や事柄を「セピア色の**」などといいます。

*淡いセピア色の照明がつけっ放しだというイメージは悲しいまでに見事に「あの日」以後の現実と小野の気持とを照らしている。この詩集の序詩とみていいだろう。《安》

2017年6月17日土曜日

日本海

   日本海

海を見たい。
八月の日本海を見たい。
そして暗い水平線の向ふの
ダフリヤカラマツやグイ松の森林を見たい。
晴れた日の蜃気のやうに
北の 東の
さらさらにその向ふの
荒漠たる奥地の世界に動いてゐる
倒木機やブルドーザーを見たい。
マシンツールのきらめく反射を浴びたい。
わが港湾から姿を消した
俺の妖精は(秘密だが)
たしかにそのあたりにゐるのだ。
かつて市振の海岸から見た
日本海の白波をおもふ。
灰緑色の大波浪をおもふ。
根焼けしてゐる海藻や
膠のやうに熔けてゐる珪藻類を想像する。
カラヌスといふ
美しい紅色のプランクトンが繁殖するのもいまごろだ。
も一度あの海を見たい。
日本海。


「ダフリヤカラマツ」は、北緯72度30分に及ぶ世界一北に分布するカラマツで、ダフリヤはバイカル湖の東からアムール川流域の西部までの地域の古称に由来しているそうです。厳しい気候に耐える樹木で、樹高30 m、幹径80 cmに達しますが、森林限界付近では樹高は低く、ハイマツのような姿をとります。

樹皮は赤みを帯びているかまたは淡褐色で、分厚く、古株の幹の下部には亀裂が走ります。針葉は明緑色で長さ15〜30 mm、球果は15〜30 mmの楕円形。「グイマツ」は、千島列島と樺太に分布するダフリヤカラマツの変種です。。

「市振(いちぶり)」というとやはり、芭蕉の「奥の細道」にある「一つ家に遊女も寝たり萩と月」という艶な句が思い出されます。越後と越中の国境にあり、その名のとおり越後の第一番の「振りだし」です。

市振はむかし、旧北陸道の難所「親不知・子不知」の西にあたる宿場町として賑わいました。市振海岸は、白亜紀の火山岩でできた山が海岸線までせまります。海岸は砂利浜で、水磨された岩石組織が美しい礫で埋め尽くされ、ヒスイを観察することもできます。

*小野の「夢」が、「中絶」のあと、また新たに躍動しようとしている。巻末に置かれたこの詩の調子は、小野自身を内部からふるいたたせるためのものではなかったか。《安》

2017年6月16日金曜日

吉野の羊歯

   吉野の羊歯

街に
蕨を売つてゐた。
そのじくときたらおどろくほど太くたくましい。
いかにもこいつは昨日まで
人跡未踏の大山中にのびてゐたといふ感じがする。
束にして積んであつた。


「蕨」(ワラビ)は、植物学的にはイノモトソウ科の夏緑性シダをいうようですが、「羊歯」(シダ)の若芽を「わらび巻き」というように、日本ではワラビはシダの代名詞とされることもあります。ワラビは各地にもっとも普通にみられ、全世界に広く分布する汎分布種の一つです。中国語の「蕨」はシダを意味し、逆に英語のfern(シダ)が詩などに用いられるときは、普通、ワラビをさします。

コケ植物の後にあらわれた、ワラビやゼンマイなどシダ植物は、陸上で最初に栄えた植物といってもいいかもしれません。ざっと3億年前のことです。まだ、種子がなく、無性生殖の胞子で増えます。地球の歴史のうえでの存在感からしても「おどろくほど太くたくまし」く、「人跡未踏の大山中にのびてゐたといふ感じ」を有しているのです。

*おどろくほど太くたくましいものを運んできて積んだ人間の臭いを感じる。《安》

2017年6月15日木曜日

野茨

   野茨

海はいま
まつたく忘れられてゐる。
だれも家の裏口にさへ出てみようともしない。
垣根には野茨の花乱れ咲き
黒松林のかなたに
六月の海は暮れようとしてゐる。
船影もない。
ただ河口のあたりに
一日脛まで水につかつて
泥掻きのやうなもので
蜆貝をとつてゐる人がゐる。
ぽつんとひとり川の中にゐて
その人はまだ帰らうとしない。
すぐ真向ふだが遠いのだ。
あすこにゆくためには
加賀谷平林の大葦原を大廻りしてゆかねばならない。
あの人は夜にならないと帰れないだらう。
河原に白いものが見える。
脱ぎすてたシヤツか何かだ。

      〇

わらびは暗い山中に生えてゐる。
しんしんと耳が鳴るやうなしづかな山の中。
山藤さがり
わらびとる人がゐる。


「野茨」(ノイバラ)=写真、wiki=は、北海道から九州までの野原、川原、山すそなどに見られるバラ科の落葉低木。もっともよく見かける野生のバラです。

茎はよく枝分れして、ときにつる状になり、とげがあります。葉は互生し、羽状複葉。小葉は7~9枚で長さ2~5cm、卵形か長楕円形をしています。

花は5~6月ごろ、茎頂に円錐花序をなして咲き、径2cm内外で、通常は白、淡紅色になることもあります。果実(偽果)は球形で、秋から冬にかけて赤く熟します。

「加賀谷平林の大葦原」とは、いまの新木津川大橋付近の木津川沿岸のあたりなのでしょうか。いまでは工場がびっしり立ち並び「大葦原」をうかがい知ることはできません。

*風景のなかに人間があらわれるが、ここでは人間の孤独のリズムが風景の孤絶のリズムと合致している。かつての『風景詩抄』中にはみられなかたことである。小野自身のやりきれない「人恋しさ」がここにはある。

2017年6月14日水曜日

暗い桜

   暗い桜

どこかそれは
大和の南葛あたりの地形に似てゐるが
卓状の平らな山が見えて
さびしく荒れはてゝゐる。
その下を一筋の小川がながれ
堤に沿ふて真白に桜が咲いてゐた。
うす曇りの空のすきまから
にぶい光がおりてゐて
凄いやうなしづかさだ。
幸福にもあるひとは
こんなときに こんなところで
生まれてはじめて桜の花を見るのだ。
遠く 白く
積乱雲のやうに
動かない。


「大和の南葛」というのは、奈良県中西部の旧南葛城郡あたりのことでしょうか。西に大和葛城山、金剛山が聳え立ち、古代豪族葛城氏の本拠地でもありました。1958年に、御所町、葛村、葛上村、大正村が合併して御所市が発足し、南葛城郡はなくなっています。

「卓状」は、上面が平らであること、頂部が平坦であることをいいます。崖で囲まれた高台で、侵食によって台状の岩層が地上に残った地域を卓状地と呼ばれます。

*徴用生活直前に書かれた作品であって、「わたしの精神の位相たるや、まことに危ふしという感がする」と後年回想している作品である。退屈な「自然」が生々としたものとして小野の眼に映りだしたのだ。大和国原に咲いている暗い桜。そして夕暮の水の中に鳥貝一つ沈んでいる飛鳥の小川(「夕暮の水の中に」)。それから五位鷺が巣を作っている荒れはてた御陵の森(「夢」)。《安》

2017年6月13日火曜日

夜の葦

   夜の葦

闇の奥から
疾走する前燈の中に
夜の葦が飛びこんでくる。
ネガに浮き出されたやうな真白い葦が
軌道の両側にながれて
殺到してくる。


「ネガに浮き出されたやうな真白い葦が/軌道の両側にながれて/殺到してくる。」と、「軌道」という表現を使っているところからすると、詩人は夜、列車から眺めている葦の風景のようです。

「軌道」はふつう、鉄道車両の走行を誘導するレール(軌条)、レールの間隔を一定に保つ枕木、それらを支え道床などから構成されます。法律上の軌道は、軌道法(1921年)と旧内務省の軌道法施行規則によって敷設された線路を指します。

「ネガ」=写真、wiki=は、ネガティブ”の略で、陰画とも言います。いまはすっかりデジタルになってしまいましたが、被写体の明暗が反転して再現されたフィルムのことをいいます。プリントする段階で反転し、通常の色調・階調の写真にします。

モノクロ(白黒)ネガとカラーネガがありますが、時代からすると黒白写真が想定されます。ネガフィルムで写真を撮影して現像すると、被写体の明暗と逆の明暗の画像が得られます。「疾走する前燈」に照らし出されて、ふつうならうっそうと黒く群れる葦が、ネガを見ているように「真白」く「殺到して」眼に飛び込んでくるというわけです。

*(この詩も)小野の「風景の大荒廃の中絶」に与えられた新しい表現であろう。……一瞬殺到する白い葦を受けとめる眼でもある。《安》

2017年6月12日月曜日

小鳥たちの風景の記憶について

   小鳥たちの風景の記憶について

アツタカクナツテモアスコヘハユケナイアノクニノ
アノカワノアノアシハラハ
モウダメダ


日本国の美称として古来、豊葦原という言葉が使われてきました。神話に基づく日本国土の呼称で、豊かに葦の生い茂っている原の意です。

『古事記』や『日本書紀』では「葦原中国(あしはらのなかつくに)」とあって、天上界の「高天原(たかまがはら)」、地下の「黄泉国(よみのくに)」に対する中央の世界、つまり人間界をさします。

高天原からみて、海辺にアシの繁茂するいまだ開けない(これから開き、治めるべき)土地と考えられているわけです。「豊葦原の瑞穂の国」ともいわれますが、「豊」は豊か、「瑞(水)穂」はみずみずしく実る稲の穂の意の美称とされます。

*(この詩も)「大海辺」で語られた小野の「風景の大荒廃の中絶」に与えられた新しい表現であろう。ここには『風景詩抄』の「瞳」が生きている。小野は「葦の地方」のイメージが『大海辺』の作品にはとどいていないと書いた。たしかに「葦の地方」のイメージは中絶したが、それを見据えていた「瞳」は確実に生きつづけた。やってこない小鳥を捉える眼であり、一瞬殺到する白い葦を受けとめる眼でもある。《安》

2017年6月11日日曜日

放棄の歌

   放棄の歌

イソシギの渡りも絶え
アジサシの群もゐない。
ただ見る釉面のひびきわれのやうな土地のひろがり。
食物移動や
光力説よりも純粋に
天の小禽は知つてゐるのだ。
煙は雲に這ひ
また地上にかへつてゐる。


「イソシギ」は、全長18~20cmのシギ科の鳥。頭部から背、尾、翼上面は灰褐色で白色の眉斑と翼帯があり、喉、胸から腹は白く、胸に細かい灰褐色斑があります。水辺にすみ,独特の涼しげな声で「つぃーつぃーつぃー」と鳴きながら水面近くを飛びます。食べ物は昆虫や甲殻類などの無脊椎動物で、湖沼沿岸、海岸、河川などにすんで、水辺の近くの地面に営巣します。日本では奄美群島以北で繁殖し,多くの地域では留鳥です。

「アジサシ」=写真、wiki=は、カモメ科の鳥。一般に暖かい区域に分布し、とくに熱帯海域にすみます。カモメより小型で、くちばしは細長くとがり、翼は細長く、尾も細長く燕尾形をしています。短い脚にみずかきがありますが、泳ぐことはほとんどありません。大部分の種は魚類を主食とし、空中で魚をさがし水面におりてとらえます。

「光力説」というのは、光子(光量子)説のことでしょうか。光の本質が粒子(光子)なのか、波動なのかをめぐっては、19世紀には波動説が有力でしたが、1900年のプランクによるエネルギー量子仮説を用いた黒体輻射の説明や、1905年のアインシュタインの光量子仮説による光電効果の説明などで20世紀には粒子説が復活します。そして、粒子と波動の二重性を持つと言う結論が量子力学によりもたらされることになります。

*「大海辺」で語られた小野の「風景の大荒廃の中絶」に与えられた新しい表現であろう。

2017年6月10日土曜日

不当に「物」が否定されたとき

   不当に「物」が否定されたとき

不当に
「物」が否定されたとき
私は「精神」に対して怒りを感じた。
物質は或るとき
さういふ精神どもに取囲まれた。
物は駆り出されて
あちこち逃げまどひ
或は天界にすつ飛んだ。
物は容れられず
永久に孤立してゐた。
物は内に深い寂寥をたたえ
異国の荒れた鉱山や
旧世代の都市の工場地帯から
はるかに
故国の方を見てゐた。
私はいま物の位置を信じることが出来る。
雑白な
脅迫がましい精神どもが立ち去つたあとから
私は物質をこゝに呼びかへしたい。
その酷烈な形象で
全地平を埋めつくしたい。


「心身問題」について、平凡社の『世界大百科事典』には「古来、霊と肉、魂と身体の問題として、宗教や日常の場で絶えず顔を出す問題であったが、また量子力学での観測問題や大脳生理学ではいまだに人を悩ましている。もちろん哲学ではそれぞれの哲学の性格をきめるほどの基本問題であったし、今でもそうである。この問題の大筋は、まず人間を心と体に分け、その上でこの心と体がどう絡みあっているのかを問うことである。ところがその絡みあいの仕方についての各種各様の考えのどれもが満足のゆくものではない」とありました。

*(この詩は)小野の「物」論=「精神」論としてしばしば取りあげられ論ぜられるが、ここでは大岡信の明確な発言を記しておこう。

「これはみごとな精神の賛歌である。ぼくは詭弁を弄しているのではない。小野氏は『私はいま物の位置を信じることができる』と書くことによって精神の位置から物に転落しないでいるおのが精神を、誇りをもって確認し、証言しているのだ。小野氏が『精神』に怒りを感じたのは、それがもはや精神でなくなっていたからにほかならぬ。物に激しく抵抗する精神だけが、物の位置をたしかめ、信じることができるのだ。たしかに、最も激しく人間精神の領域を変貌させた詩人たちは、例外なしに五官においては極度のマテリアリストだった。彼らはそのようにして、実は精神の位置を明るく浮き彫りし、その領域を拡大したのである」(『現代詩人論』角川書店)

2017年6月9日金曜日

井邑の人

   井邑の人

井邑の
井州邑水城里とはいかなるところぞ。
今宵井邑の人一人異国の空に死す。
扶安 晋陽 順天 金海 南原
悉く集りき。


「井邑」(チョンウプ)は、当時は、韓国、全羅北(チョルラプク)道の南西部にある郡。南東部は、蘆嶺(ノリョン) 山脈、北西部は湖南(ホナム)平野の一部で、中央を東津(トンジン)江が流れています。山間の蟾津(ソムジン)江ダムから水を受入れて発電と灌漑に利用され、米、オオムギ、サツマイモなどが栽培されます。

食品加工と繊維工業が盛んで、石灰石が採掘されています。南東境の内蔵(ネザン)山 (722m) はカエデとカヤの紅葉で知られ、滝や内蔵寺、白羊寺の古刹でもあります。1995年には、井州市と合併して井邑市が発足しました。

*地名については次の一文の地名と一致している。
「毎朝出勤してデスクにつくと、前もって各寮から提出された寮簿にしたがって、その日の朝鮮徴用工たちの出欠をしらべて、一枚の表に集計する。配給物品などがあれば、すべてこれにもとずいてやるのである。表には、扶安、晋陽、井邑、順天、金海、南原、麗水などと、かれらが徴用された南鮮の州や町の名が三十ほど並んでいる」(『奇妙な本棚』)

2017年6月8日木曜日

脱走者

   脱走者

釜山に向う
進行中の列車の
便所の窓硝子をたゝき破り
死を賭してダイビングの如く
ただ一念日本本土の土を踏まざらんことを
願ひしものもありたり。


1910年8月29日の大日本帝国による韓国併合から、1945年9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間にわたって朝鮮半島は日本によって統治されました。

1945年8月15日、第2次世界大戦の終結にとともに日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えました。日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮半島の統治権は連合国側に移ります。

1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で降伏文書に調印。9月9日には朝鮮総督府は解体されて、京城の朝鮮総督府庁舎=写真、wiki=には日章旗に代わって星条旗が掲揚されました。

そして、アメリカ軍は日本政府や日本人の資産を没収、日本人引揚者たちは検問で、金品の供出を強要されるなどされたようです。そんな当時、必死になって「日本本土の土を踏まざらん」とする引揚げ者の話なのでしょうか。

*伝えきいた話がそのまま作品となっている。《安》


2017年6月7日水曜日

深夜の出迎へ

   深夜の出迎へ

長旅に疲れて
いまは物を云ふ気力もない。
大きな荷物を背負つたまゝ
吊革によりかかつてうとうととしてゐるものもゐる。
日本の夜は真暗で何も見えない。
寂寞として
あたりは海の気配がした。


組詩「惜別」の一篇です。「惜別」には「朝鮮の若い友だちへ」という一行が添えられています。

十三郎は、1943(昭和18)年夏、徴用されて、藤永田造船所へ入ります。労務部に配属されて徴用工指導員として敗戦まで勤務しています。そこには、朝鮮からの6000人の若者を含めて一時は1万数千人もの徴用工がいました。

「藤永田造船所」は、かつて大阪市にあった、日本最古といわれた造船所です。日本海軍の艦艇や鉄道車両を製造していました。

1689(元禄2)年3月、大坂堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業。開国すると、西洋式船舶である君沢型スクーナー船、木造外輪汽船の建造に取り組み、近代的造船所に脱皮しました。

戦前は、日本海軍との関係が強く、そのことで昭和金融恐慌などの経営危機を乗り越えた。1919年、海軍の指定工場となり、1921年5月には駆逐艦「藤」を竣工。以後、「皐月」「文月」「叢雲」「綾波」「曙」「黒潮」=写真、wiki=など海軍艦艇56隻を建造しています。

1929年には、創業家の10代当主が社長を辞任して、海軍中将が社長に。1940年には海軍管理工場、1944年には軍需会社に指定されています。1967年、企業競争力の強化のため同じ銀行融資系列の三井造船に吸収合併され、278年の歴史に幕を閉じました。

*「私の仕事は、労務課の指導員という名で、主として徴用工たちの寮生活の面倒を見る仕事であった。私のまわりには、私と同じく世帯持の日本の徴用工たちの他に、来た当初は8000人になんなんとする朝鮮本国から徴用されてきた平均年齢21歳の若い朝鮮人がいた。寮生活を通じて、私はかれらの人間性にふかくふれるところがあり、戦争が終ってかれらが帰国するまで一年半、同じ釜の飯を食って苦労を共にしたことをいまでもなつかしく想いだす」(小野「風景と人間と」から)。

2017年6月6日火曜日

諸機械たち

   諸機械たち

遠い寒い巻雲の
まだその上の遠いはるかな天へ
冬の葦たちは消えていつた。
ふと見ると
なんとこれは夥しい中古機械たち。


「機械」とは、機械の定義は時代とともに変遷しています。 1960年代ころまでは、使用中に受ける外力、温度、その他に耐えうる物体の結合・組合せから成り、それらのうちの特定部分が一定の相対運動を行なって、外部から与えられたエネルギーを所要の仕事に変換するものとされてきました。これは、この時代の作品です。

しかし、この定義では最近のコンピュータ、ティーチングマシン、人工臓器など、新しい機械を含めることができなくなっているので最近は、機械を広く解釈して「人間に有用な目的を達成するために、物体を組合せてつくり、これらの各部に所定の機能を与え、全体の機能を実現させたもの」とされています。

*精神主義にかかわる詩人の責任に言及した小野の文章を次に挙げておく。
「暗黙の裡に過大な精神主義を擁し、それをまきちらしていたことについては詩人も亦責任を負わねばならない。歴史家や宗教家や政治家や教育の衝にあたっている者が、頭ごなしに『物質』を否定してかかることは勝手であるが、詩人が野次馬のようにそれに雷同している格好は不愉快である。詩が若し『物質』に対立する意味での『精神』の如きものであるならば、詩人であることは実に易々たることだ。天上天下詩人にゐ非ざる者無しだ。一切の抒情詩的偶然がその生長につれて悉く精神主義の道をとっていることは頽廃の徴候である」(『詩論』148)
 これはなにも戦争中の異常な精神主義についてのみ云えることではあるまい。《安》

2017年6月5日月曜日

パイプの話

   パイプの話

さびしくなつた。
こんなものを作つてる。
友だちはさう云つて
小さい細身の真鍮パイプを一つくれた。
一九四四年頃。
北加賀谷屋平林の諸工場が
隔絶してあんな遠く
茫漠たる彼方にあつたことをふしぎに思ふ。


「真鍮」(しんちゅう)は、黄銅のことで、銅と亜鉛の合金で、特に亜鉛が20%以上のものをいいます。適度な強度、展延性を持つ扱いやすい合金として、約350年ほど前から広く使われているそうです。

真鍮パイプは銅パイプに比べて強度に優れ、加工時の電極消耗が少ないのが特徴です。工場やプラント、機械などさまざまな配管、給水管、さらには金管楽器にも使われています。

ここでいっている「小さい細身の真鍮パイプ」はなにに使われるのでしょうか?

「北加賀谷」「平林」は、いまの大阪市住之江区の地名。かつては近くに大規模な工場が立地していました。

*遠く荒れていた「葦の地方」の中絶が簡潔に歌われている。《安》

2017年6月4日日曜日

成瀬政男

   成瀬政男

雨が降つてゐた
僕は蝙蝠傘をさして
足駄を履いて
遠い加賀谷の造船所に通つた。
レーンコートの内ポケツトに一冊の本が入つてゐる。
昔々その昔成瀬政男といふ若い歯車の大家がヨーロツパ帰りの船中で
これも有名なさる日本作家と出会つた。
ぼくは電車の中でその本を読む。
――禊といふものは
と科学者はその小説家に向つて云つたのだ。
多分神はこの日なほぼくの中にもゐたのだらう。
ぼくは海の方へ歩いていつた。
猛烈な向ひ風に
何度も傘を折られさうになりながら。
昭和二十年八月十五日は
半年の後に迫つてゐた。


「成瀬政男」=写真=「歯車の成瀬」と謳われ、東北帝大教授を勤めた機械工学者。1898年(明治31)千葉県生まれ。小学校代用教員などを経て東北帝国大学工学専門部、東北帝国大学機械工学部を卒業。直ちに機械機構学の講義担当の講師就任。歯車の研究を開始。

理学と工学の融合を企図した東北帝国大学の学風を生かし解析幾何学と数学を駆使し歯車の新たな一般理論を構築しました。欧州留学時に歯車研究とならび日本の産業振興に何が必要かを常に模索し、国、技術、産業、教育への考えを著書や講演で訴え実践しました。

豊田喜一郎の国産自動車開発に協力し、その歯車理論と技術が現在の「トヨタ」の躍進へと貢献しました。また、技能教育の重要性を説き、定年退官後、新設の中央職業訓練所(現・職業能力開発総合大学校)の校長をつとめた。1979年(昭和54)没。

「足駄」(あしだ)は、雨の日などに履く、高い歯の下駄。高下駄。歯は差し歯で、磨り減ると差し替えます。男物は歯が厚く、女物は薄い。雨、雪の日は爪革を掛けて用います。

*精神主義の対する嫌悪は小野の一貫した態度であるが、戦中の神がかり的精神主義に対する不安と嫌悪がこの詩の主題である。小野は次のように述べている。
「当時、わたしはこの東北帝大教授であり工学博士である成瀬政男の歯車の本(『日本技術の母胎』)に相当いかれていた。わたしは、日本の航空機に使われている歯車と、アメリカの航空発動機用の歯車であるライトサイクロンの、この二つの歯車の精度をしらべて、アメリカのそれは理想円より十数ミクロン、兎の毛・羊の毛の二、三倍も悪いと成瀬政男が云うこの厳然たる事実に打たれたり、また、戦争初期においてこのように精度にひらきがあった日本の航空発動機用の歯車が、後にライトサイクロンに追いつき追いこして、ついに五ミクロン、頭の毛の十分の一しか狂いがないものを生み出すようになった次第が述べられているところを読んで感動したい」(『奇妙な本棚』)
 小野が感動したのは、「当時日本上下を支配していた神がかり的な精神主義だけを目の敵にしたわけではない。科学主義のなかにも小野は嫌悪すべきものを敏感にかぎつけている。
 小野が感動したのは。「当時日本上下を支配していた神がかり的な精神主義に対するアンチテーゼとしてであって、なにも精神主義だけを目の敵にしたわけではない。科学主義のなかでも小野は嫌悪すべきものを敏感にかぎつけている。
「精神主義が怪物なら、所謂科学主義や科学思想だって随分怪物が多い。『科学する心」等という得体の知れぬ化物が白昼横行してるのもその一例である」(『詩論』23)
「(成瀬政男が)みそぎの精神と結びつけて、あたかも本来の日本人の血潮の中には、もろもろの徳とともに神格にまで昂められた技術の血が流れているなどと云ってういるところを読むと、また不安にならざるを得なかった」(『奇妙な本棚』)。《安》

2017年6月3日土曜日

   夢

きみか。
あんなところに
大砂漠の幻影を見たのは。
そしてその中に
バム鉄道の彼方にありさうな
重工業都市を一つ置いてみたのは。
どんな荒々しい非情の自然を
きみはその眼で見たのだ。
あすこに
そんなものがあつたのか。
そしてまだあると思ふか。
岩山や地溝の切りこみが
神々の濃霧が
海にまで迫つてゐた
この国に。


「バム鉄道」=写真、wiki=は、バイカル・アムール鉄道の略で、第2シベリア鉄道ともいわれます。全長約 3200km。東シベリア南部、イルクーツク州のタイシェトからレナ川上流部沿岸のウスチクートまでシベリア鉄道の支線が延びていますが、バム鉄道はそこからバイカル湖の北を通りチャラ、トゥインダ、ウルガルを経てアムール川下流のコムソモーリスクナアムーレに達します。

シベリアの中部地帯の資源開発などを目的に1974年、着工。多くの山脈、大河川、永久凍土帯などを通るため、建設工事は難航をきわめ、全線が開通したのは84年10月のことでした。ですから、この詩が作られたのはまだ着工前の「夢」の段階だったわけです。

1880年代にシベリア鉄道が計画されたときに、バム鉄道に近いルートも候補に挙がったそうですが、最終的に候補から外れました。バム鉄道は、満州事変勃発の翌年、1932年にはソビエト連邦によって極東の防衛に備えてすでに計画されていたそうです。

さらに部分的には、東西両端から建設に着手され、1945年夏には東部のコムソモリスク・ナ・アムーレからワニノ港までの一部区間で運行を開始、西部区間でも1947年にはタイシェト~ブラーツク間の輸送をはじめています。建設にはシベリア抑留で捕らえられた日本人も多く使われ、犠牲者も多かったそうです。

*これは小野の苦い自問である。「あすこにそんなものがあつたのか」「そしてまだあると思ふか」という問に「あつた」「ある」と答えるにはあまりに現実は急迫したのだ。「神々の濃霧が海にまで迫つてゐたこの国」と述べる口調には諷刺の影もない。あるのは「夢」を刺された痛みだけだ。《安》

2017年6月2日金曜日

大海辺

   大海辺

だあれもゐない。
がらんどうになつたタービン工場。
やぶれた硝子窓を潜つて
海の方へ
雀たちが飛び抜ける。
トタンが一枚捲れて
高いところにぶら下つてゐる。
風が吹くたびに
ぎいぎい音を立てる。

      〇

暗い海の方から
枯れた葦原や
街の方を見てゐる眼がある。
くづれた煉瓦や
赤錆びた鉄骨の隙間から
遠くの山や
平野や
村落の方を
見てゐる眼がある。
雨晒しの大旋盤は悲しきかな
ボールトやナツトはいたるところに散乱してゐる。
夕波は
さびしい音を立てゝ
岸壁を洗つてゐる。

      〇

かへり見れば
さびしい風光ばかりだ。
私は夢に角枯れのある一本の松の大木が
海べりのあの機械工場の煤ぼけた越屋根を突き破つて
――あゝ。日本は。
私は思はず声をあげた。

      〇

明日から工場が閉鎖される。
これからどうするのと訊いたら
国に帰つて百姓になるんだと言ふ。
ふしぎ。ふしぎ。
何処にゐても
私のぐるりは百姓ばかりだ。
遠い古い小さいわが農業国。
どうか安全に
みんなそこに帰りつけますように。

      〇

八月某日。
わが風景の大荒廃こゝに中絶す。

      〇

夕暮。
ひとり。
雨上りの葦原の道を帰る。
潮が引くやうに
半島の若者らは
みな国に帰つてしまつた。
いまは言ふこともない。
こゝにゐたやつはそれはみないゝやつだつた。
みなおもしろいやつばかりだつた。
急にだあれもゐなくなつて
俺はさびしくてしようがない。
お―い。みんな元気か。
錆びた傘歯車が一つ。
未知の上におちてゐた。
俺は拾つて
持つて帰る。

      〇

又夢を見た。
豊後の国。国東郡。
百五十年昔の美しい夕焼雲だ。
その中にあなたはひとり立つてゐた。

梅園三浦。
しきりにあなたを思ふ。

      〇

        (わが海と葦原への戯歌)
俺がゐなくて
寥しいね。
あすこは大きくなれつかな。
アルミの湯沸し。鉄の鍋。
悪魔のゐない童話国。
小さな煙を上げてゐる。
遠いはるかな海と葦。

      〇

冬のはじめ。
泥濘の路。
国道を外れて
暗い寒いあの海の方へ
横倒しにしたボムベを積んで
一台の馬力がゆく。
荒れはてた故国よ。
道はやはりあちらだ。

      〇

雨歇みて
風吹く。

海に白馬立ち
葦原に水溢れ満つ。

わがゆくところ悉く
殿堂にして廃墟。

乱雲四方に連なる。
金光燦爛たり。


きょうから第5詩集『大海辺』です。昭和22年1月15日に弘文社(大阪)から発行されました。小野は『奇妙な本棚』で、『大海辺』という題名は一つの反語であって、当時その海辺に見たのは「小さな海」であったと述べています。

「その海辺に、人間こそ、朝鮮本土から連れてこられた六千をこす徴用工を含めて、二万となんなんとする人間がいたが、工場の施設そのものは、遠くから望見していた眺めとはちがって、スケールが小さく、わたしはがっかりした」というのです。

「大海辺」(だいかいへん)の「海辺」は、海のそば、海のほとり、海岸のこと。すなわち、海洋に面する陸地のうち、波浪や潮汐などの影響を直接受ける幅の狭い帯状の地域をいいます。陸地と海洋の境界領域として独特の地理的・生態的環境をなすのです。 

陸地と海面とが交わる線を海岸線あるいは汀線といいますが、毎日の潮汐の干満につれてその位置は時間的に変化し、前進・後退します。平均的な高潮位と低潮位に対応する汀線を、それぞれ高潮(汀)線、低潮(汀)線といい、両者によって挟まれる地帯を潮間帯といいます。低潮線と波浪の作用の及ぶ陸の限界の間を海浜、あるいは浜とよびます。

*巻頭の組詩「大海辺」は「夢」を刺された小野が視力のかぎりをつくし見とどけようとしてものだ。荒れれば荒れるほどいいといいつづけてきた小野は八月某日「わが風景の大荒廃ここに中絶す」と云わざるを得なかったのだ。無人の工場には雀たちが飛び抜ける。工場の屋根を突き破って松の大木が聳えている。泥濘の路を一台の馬力がゆく。葦原は、街は、山は、平野は、村は、「眼」に見られている。気にかかるのは、故郷に帰って百姓になるという工場仲間。それから国へ帰っていった半島の若者。あれほど人間を意識的に遮断してきた小野の視界に急に生々と人間が雀が植物が入りこんできたという印象が強い。《安》

2017年6月1日木曜日

富士接近

   富士近接

木の緑
みなどす黝く
青空は洞穴のやうに暗い。
富士は鬱然として望遠レンズの中にある。


「富士」=写真、wiki=は、日本を代表する成層火山で、最高点の標高は3776m。富士山は活火山の中でもマグマの噴出率が特に高く、通常は玄武岩質の溶岩流やスコリア(黒っぽい砕屑物)を噴出しますが、火砕流や岩屑なだれも出します。

864年の貞観の噴火は、北西山腹から溶岩を流して青木ケ原を形成。1707年には、宝永地震の1カ月半後に宝永の噴火が起きて南東の中腹に火口を造り、山の東側に大量のスコリアや火山灰を降らせました。影響は江戸まで及んでいます。

古代から信仰の対象で、立山(富山県)、白山(石川県・岐阜県)と並んで日本三霊山に挙げられています。江戸時代には、富士講(霊山信仰の一派)が組織され、集団での参詣登山は庶民の人気となりました。また、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景」をはじめ、芸術家たちの心をとらえ、絵画や歌などの題材にもなっています。

2013年には、「富士山と信仰・芸術の関連遺産群」として世界文化遺産に登録されました。当初は距離の遠さを理由に登録から除外されていた「三保松原」も、政府と地元が一体となったロビー活動など稔って、構成資産に含まれました。

*長谷川龍生は「草野心平は富士山を華々しい精神としてとらえた。しかし小野十三郎は精神と物質の両面から富士山をとらえているのだ」と述べている。《安》