2017年8月21日月曜日

鬼あざみ

   鬼あざみ

このぎざぎざ。
この鋭いトゲ、花冠の重量。
なんて大きな紫の鬼あざみだ。
ほんとうにもいできたのか、きみの手で。
あたりを圧する絶対の乾燥。
どこに、どこに咲いていたのだ?
あっちというだけではわからない。
おしえてくれ、どこだ?
火を噴いてる山でも
見えるか。


「鬼あざみ」は、キク科の多年草。オニノアザミともいいます。茎は太く、多くは斜上し、高さは0.5~1メートル。上部に縮れた毛やくもの巣状の毛があります。根出葉は花期にもあり、楕円形で、長さ30~65センチメートル、羽状に中裂します。裂片は卵形で、縁に大小の鋭い鋸歯があって、その先の「ぎざぎざ」は「鋭いトゲ」になっています。6~9月、茎頂に数個の頭花が接してつき、下向きに開きます。総包片は、暗紫色を帯びて粘着。中部地方から東北地方の日本海側の海抜1000メートル以上の山地に生える日本固有種です。

*小品とはいえ、秘められた起爆力は相当なものだ。《安》

2017年8月20日日曜日

いま、この時刻に

   いま、この時刻に

路上に
やせた脛を投げだし
壁にもたれて
眠っているやつがいる。
乞食みたいなそいつも
そいつの前を通りすぎるやつも
みな白い衣をまとっている。
らくだが通ったり
羊の群が通ったり
女が頭の上に大きな籠や甕をのっけて通ったりしている。
竜舌蘭のような植物もうつっている。
太陽直下で
眠っているそいつは
戦車が前を通っても平気だ。
脛を投げだしたまま
いつまでも眠っている。
榴弾砲かなにかの
長い砲身を前に突きだした重戦車が
あとからあとからやってくる。
夢の中にも太陽はあたっているが
やつがいま見てるのは
砂漠の砂の中にいる
黒と白の縞目もあざやかな一匹の蛇。
美しい蛇は
ときどきからだの一部を
砂の上に波うたせて
砂の中を水蛇のようにゆく。
砂埃りの舞い立つ中から
長い砲身を突きだして戦車はなおもやってくる。
砂漠の町には戦車が一ばんよく似合う。
あとからとからやってくる。
だれもおどろかない。
まだやってくる。
まだまだやってくる。
長い砲身を前に突きだして
砂埃りの中から現われる。
けれど眠ってるやつは平気だ。
彼は縞目もあざやかな美しい蛇の夢を見ている。
いつまでもそれを見ている。
おどろくやつなんかいない。
それは太陽と同じこと
それは砂漠の砂と同じこと
みんなかれらのものなのだから。
砂埃りが引くと元の町だ。
白い衣をきた人たちが往来している。
らくだが通っている。
頭の上に大きな籠や甕をのっけた女が通っている。
竜舌蘭のような植物も
まだ見える。


「竜舌蘭」=写真、wiki=は、リュウゼツラン科の大型常緑多年草。メキシコ原産の観葉植物で、鉢植や庭園で栽培されます。葉は根生し、多肉で長さ1m以上になり、縁と先端に硬いとげがあります。花を見かけることはまれですが、花茎は株の中心から5m以上も高くそびえ、黄色い筒状の花を多数つけ、花がつくと全株は枯死します。

アメリカ、メキシコの乾燥地や旧熱帯の森林に生えています。米テキサス州南西部の岩陰遺跡の糞石からは、2800年前のリュウゼツランの一種の花粉や含まれていたシュウ酸石灰の結晶がみいだされています。メキシコではリュウゼツラン類を「マゲイ」とよんで、プルケ、メスカルやその一種のテキーラなどの酒をつくるのに使われています。

「榴弾砲」(りゅうだんほう)は、17世紀頃に一般化した火砲。平射で長距離をねらうカノン砲と、曲射で近距離用の臼砲の中間の砲種として、火砲の基本的な型の一つとなりました。援護物後方の目標を攻撃したり、砲台や軍艦甲板を上方から破壊するのを目的としています。近代以後、口径10cm内外の野戦榴弾砲が戦場で重宝がられるようになりました。日本の旧陸軍では、重、軽の2種類を使い、軽榴弾砲は口径10cm、最大射程1万m、重榴弾砲は口径15cm、最大射程1万5000mだったそうです。

*この作品は前出の「寝汗の世界」と似ているが、ずっと深い魅力がある。「寝汗の世界」の直接的な実在感は否定できないが、観念の世界であり夢の世界であり「空想的作品」であるのだが、この作品は、夢だ夢だととおもいつつ脂汗流してしまうようなところがある。眠っているやつは蛇の夢を見る。眠っているやつのまえを戦車があとからあとから通りすぎていく。いつか、夢の砂漠も現実の砂漠も、蛇も戦車も男も太陽も、時間空間を絶してあい交わってしまっている。小野の云い方をもってすれば、小野はこのとき「路上に/やせた脛を投げだし/壁にもたれて/眠っているやつ」の中へ住みついたのだ。《安》

2017年8月19日土曜日

工作者の旅行

   工作者の旅行

夕日を
まともにうけた岩山から
磁鉄鉱の露頭が
はげしく照りかえしてくるために。
地にみだれ伏す熊笹や羊歯。
爬虫の鱗のように密生し乾燥している灌木の茂みが
行手をさえぎっているために。
砒素のごときものが投じられ
渓谷には無数の魚が白い腹を見せて浮上しているために。
しずまりかえった世界の中で
大音響とともに
崖が爆発し崩壊するために。
沸き立つ蝉時雨。
土砂降りの夕立。
その中でまったく途方にくれるために。
熱い鉱泉が湧く岩間で沐浴している太古さながらの住民から
ふいの闖入者として
猜疑の眼で見られるために。
人かげもない部落で
物かげにつながれている犬に
気ちがいのように吠えられるために。
その人跡稀なるところは
なにものか設けられた
立ち入るすきまもない城砦のごときものであるために。
山には濛々と
硫黄の煙がたちこめているために。
夢も計画も一挙にぶっこわされるために。
真上の空に
永久にとどまっている夏雲の下。
どこかの山間の
鉄道地図にはない無人駅から
そびえ立つ石切橋の乱反射と
朽ちた柵の棒杭の先に羽根を休めている揚羽蝶の
かすかな形影を最後に
だれも知らない時間に
一人の目撃者もなく
行方不明となる。


「磁鉄鉱」=写真=は、鉄の重要な鉱石鉱物。正マグマ性鉱床、変成鉱床、堆積鉱床、漂砂鉱床(砂鉄)、接触交代鉱床のなかなどに産するほか、各種火成岩、変成岩、堆積岩、超塩基性岩などの少量成分鉱物としても産します。また、まれにほとんど磁鉄鉱からなる溶岩の存在も報告されています。八面体、斜方十二面体など複雑なものが多いのが特徴です。
 日本で鉱床として多産したものには接触交代鉱床が多く、岩手県の釜石鉱山、奥州市江刺区の赤金鉱山、岡山県の山宝鉱山などがよく知られています。鉄・銅などの硫化物を伴うことが多く、脈石鉱物として共存するものは、正マグマ性鉱床ではチタン鉄鉱、鉄苦土鉱物、蛇紋石など、変成鉱床では石英、角閃石、緑泥石、赤鉄鉱など、接触交代鉱床では方解石、緑簾石など。強い磁性があるとされますが、純粋なものは磁性はないそうです。

「石切」というと、生駒山地の西麓、辻子谷の扇状地に位置する東大阪市の地名を思い出します。生駒山の石(生駒石)を切り出したことに由来し、大坂城築造の石もここから搬出したと伝えられています。石の切出し、加工,石垣の造営などをする「工作者」である石材業者や庭師がいまも多いようです。

*小野に『工作者の口笛』という評論集があり、そのなかに同題の文章がある。昭和37年に「新日本文学」に発表したこの文章のなかで小野は、詩人を返上して「工作者」たらんとした谷川雁に触れて「目下わたしに最も興味があるのは、詩を書くことだけに没頭している人間の詩精神の在り方よりも、このように、詩に見切りをつけ、詩の論理に代うるに工作者の論理と行動をもってする人間が、なおかくすべくもなく内に持している詩精神のその在り方であります」と述べ、「現代の若い前衛的な詩人たちの詩的認識の中には、たしかにそれを詩人とか歌い手という名では呼べない、工作者とでも云うより呼び名がないような、これまでの詩の世界にはあまり見られなかった異常な人間がはいりこんできていることは事実です」とも述べている。そして小野の手もとにぐっと引きよせて「周囲の情勢がどんなに変化しても、それによって、今度こそビクともせぬ感性の不動の秩序を自らきずきあげるこの工作の進行状況をしっかりとたしかめることができたならば、歌の一つや二つがけしとんでもかまわないという認識」が生れていると述べている。
 前作「奥の細道」の「退路を断つ」旅行に、「工作者」をかさねあわせて、「工作者の旅行」は、できあがったといえよう。《安》

2017年8月18日金曜日

奥の細道

   奥の細道

ゆく先には
いつも町があった。
構内線ががちんがちんとわかれひろがり
白い蒸気を吐いている機関車や
跨線橋が近づいてくると
そこは人口十万か十五万の中小都市であった。
その町には大学があった。
サークルというやつもあった。
チャックのついた鞄をさげて
芭蕉が降りると
大学生や労働者が迎えにきていた。
ときには出迎えは
詩を書く青年であったり
結核患者であったりすることもある。
芭蕉はかれらと車に乗って
街はずれの大学に行く。
工場に行く。
そこで五十人ばかりの人間にとりかこまれて
一席俳話をやる。
そして話がすむと
「ザンボア」とか「青い鳥」とかいう
しゃれた名前の茶店で
弟子たちとビールを飲む。
お城なんかにひっぱっていかれるときもある。
芭蕉は風に吹かれながら
ネオンの燈もまじった
田舎夕べの市街を見わたすのだ。一句生れかね。
だが、いま芭蕉のいるところはどこだ。
どこの山国をゆくローカル線だ。
その先には町はない。
跨線橋もない。
出迎えるやつはだれもいない。
予想しないことがやがて起る。
芭蕉はいまおそろしく不安だ。
眼をやると
灼きつくような秋の陽ざしの中に
赤いとうがらしを干しわたした農家の庭が
つぎつぎと はすになってすぎていく。
その真赤に燃えたつものは
いつまでもいつまでも
すぎきたり、すぎ去り
つきることがない。


芭蕉の「奥の細道」は、1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)、門人河合曽良を伴って江戸を旅立ち、奥羽、北陸の各地を巡遊、8月21日ごろ大垣に入り、さらに伊勢参宮へと出発するまでの、約150日間にわたる旅を素材とした俳諧紀行です。

芭蕉は3月27日の早朝、門人曽良を道連れに、知友門弟たちとの離別の情を「行春や鳥啼魚の目は泪」の句に託して旅立ち、草加、室の八島を経て日光山東照宮に詣で、黒羽滞在中には雲巌寺に仏頂和尚山居の跡を訪ね、謡曲の名所殺生石、遊行柳を見たのち、待望の白河の関址を越えて、ようやく旅心が定まりました。

須賀川に旧知の等窮を訪ねて「風流の初やおくの田植うた」を披露。浅香山、信夫もじ摺の石、佐藤庄司の旧跡、武隈の松などを見て、5月4日(陽暦6月20日)仙台に入り、近郊の歌枕を訪ね、画工加右衛門の風流心に打たれます。壺碑(多賀城碑)を見て塩竈神社に詣で、松島の勝景を中国の洞庭湖や西湖の眺めにも劣らぬと賞賛しますが、絶景を眺めたときには詩作を控えるという中国の文人的姿勢に倣って発句を記載しません。

石巻を経て平泉に至り、奥州藤原氏三代の栄華の跡に涙を流して「夏草や兵どもが夢の跡」と詠み、自然の猛威に堪えぬいた光堂をたたえて「五月雨の降のこしてや光堂」と残す。出羽国尾花沢に清風を訪ねてくつろいだのち、立石寺に詣でては「閑さや岩にしみ入蝉の声」。最上川を下り、出羽三山を巡礼して、鶴岡、酒田から象潟に至り、松島は笑顔の美人、象潟は悲愁の美人と対比的に叙述して「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠みます。

越後路では「荒海や佐渡によこたふ天河」と旅愁を詠じ、金沢、小松、那谷寺、山中温泉と来て曽良に別れ、福井から等栽とともに敦賀に行き、西行ゆかりの色の浜に遊んでは「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」。露通の出迎えを受けて大垣に入り、門人たちから歓待されましたが、やがて9月6日(陽暦10月18日)伊勢の遷宮を拝もうと「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句を残して大垣を旅立つところで紀行は結ばれています。

*いつもちゃんと出迎えられて、ちゃんと見送られて、無事に旅とやらをつづけてきた現代の芭蕉は、いまや「おそろしく不安」になっている。行く先に町がないから、出迎えるやつがいないから、こんどは無事に帰ってはこれないらしいのだ。芭蕉ならぬ小野もたのまれて各地のサークルめぐりなどをする。出かけていって市の話などをする。
「ゆく先はいつも人口十万か十五万ぐらいの中小都市で、そこには大学があり、労働組合があり、サークルがあり、駅のホームに降り立つと、大学生や労働者が迎えきてくれている。ときには出迎えは詩を書く青年であったり、教育委員会の職員だったりする。やってきた講師はかれらと車に乗って、街はずれの大学や工場や公民館みたいなところに行く。お寺であったりすることもある。そこで、多くても百人に満たない若い人たちの前で詩の話をする。そしていくばくかの謝礼をもらって、また駅まで一しょに車で来た四、五人の人に見送られて帰ってくる。行きっきりということはまったくなく、必ず当然のように帰ってくるこのような行動のくりかえしに、いい気なもんだなと、ときにわたしは疑問に感じることがあった。あえて詩や文学サークルだけの問題だけでなく、世の中には、行きっきりというか、自ら退路を断つというか、そういう地方の人人の日常の中に膠着してしまわなければわからないことがらがずいぶんとあるのだ。そのとき、その場でちょっと相つながったというような実感と、その記憶だけで、自分の行動を合理化していることをはずかしく思うときがあった」(『奇妙な本棚』)。
 この小野の文章を読めば、この作品のモチーフは判然とする。「行きっきり」になるかもしれない、「自ら退路を断つ」ことになるかもしれないと、「おそろしく不安」になっている現代の芭蕉は、いまはじめて「奥の細道」へわけ入ろうとしているのだ。云ってみれば、これは現実との対し方の問題であり、と同時に詩と大衆についての問題であり、専門家の問題である。「なるほど、詩が大衆のものになる、それも結構、詩がだれにも理解できるようになる、それも結構、詩はあくまでもわれわれの生活に必要だ。しかし、専門家の詩人が必要だ。あくまで専門家としての詩人が必要だ、必要だ」というナジム・ヒクメットの言葉を小野は先に引用した文章につづいて想いをこめて引用している。《安》

2017年8月17日木曜日

寝汗の世界

   寝汗の世界

どこにも
とどまらず
地をひく雲の翳のように
通りすぎた。
爆発としか形容できないことが
ぴたと静止して
そのまま氷結してしまったような世界だった。
行く先に
傘松のまばらな並木が
つづいていた。
裂けた夕焼空に
大きな風車がそびえている丘もあった。
黄色の陽ざしの中には
名も属もわからないガラスのような
草花が咲いていた。
水かさの増した
褐色の大河もながれていた。
逆光に黒く
奇怪なかたちをした帆影が見えた。
迷いこんだ白っぽけた街は
ただ土壁だけだった。
窓も入口もなかった。
「カクタス」のマークそっくりの
樹状シャボテンが生えているところもあった。
そこには
弁慶号のような
大きな煙突を持った旧式機関車と
無蓋貨車が放棄されていた。
横断幕が風がひるがえってる
無人の町もあった。
つたかずらが
鮮やかに
真赤な花をつけてるジャングルが現われた。
洞窟があった。
携帯無線機の函がころがっていた。
臼砲をすえた
中世の城砦が
断崖の上に見えた。
流氷がもりあがり
ぶつかりあってる海もあった。
巻雲が光る空に
金属製の巨大な団扇が廻転していた。
そして
突如、あたりは砂漠となった。
包(パオ)のようなものが見え
その遠いはてに
かたち正しい茸雲が突っ立っていた。
それはスエン・ヘディンも
オーレル・スタインも
決して見たこともないものだった。
そこからまた
元の傘松の並木になり
風車になり
菫色の陽ざしの中に咲いてる
見も知らない
草花の径に
なっていった……


日本の代表的な鉱業会社、日本鉱業は、昭和25(1950)年以降、「ニッコー石油」のブランドで石油製品を販売していました。当初は創業者・久原房之助が自ら考案・決定したとされる「太陽の中に月が入った形(金環食)」を図案化したものを使っていましたが、昭和36(1961)年、水島製油所の操業を機に「サボテン」を図案化した「「カクタス」のマーク」=写真=に給油所のシンボルマークを変更しています。

「弁慶号」は、1880(明治13)年にアメリカのH・K・ポーター社から輸入した蒸気機関車。義経号とともに北海道の最初の鉄道である幌内鉄道で走りました。開拓使がアメリカから鉄道技術を導入したため、最初の機関車は1C型のテンダー機関車(7100形式)で、西部劇映画に登場しそうなスタイル。大きな煙突、警鐘、牛よけ、大型のヘッドライトや運転室などが特徴です。1924(大正13)年に除籍となりました。

「スエン・ヘディン」(Sven Anders Hedin、1865~1952)は、スウェーデンの地理学者・探検家。1893年以来、数回にわたって中央アジア・チベットを探検し、楼蘭遺跡やトランス・ヒマラヤ山脈を発見、ロブノールの周期移動を確認しました。「オーレル・スタイン」(Mark Aurel Stein、1862~1943)は、英国の考古学者・探検家。中央アジアを探検し、敦煌で多数の仏画・仏典・古文書を発見、古代東西交渉史の究明に貢献しました。

*傘松の並木にはじまる諸々のイメージはこれまでの小野の詩のなかにくりかえしあらわれたものの一部である。それらすべてが茸雲突っ立つ砂漠にとってかわり、その砂漠には諸々のイメージがくりかえし拡がる。「爆発としか形容できないことが/ぴたと静止して/そのまま氷結してしまったような世界」がまざまざとつくりだされている。時間と距離を絶した、だからこそいっそう直接的に歌われた「寝汗の世界」だ。《安》

2017年8月16日水曜日

土讃線の雨

   土讃線の雨

讃岐は 晴
土佐は しぐれ
山の中腹に
県境の標識が立っている。
それもまたたくまにすぎた。
窓の外は
眼のとどくかぎり
台風のあとのように
晩稲が重くたれ伏している。
重なりあって
淡い秋の太陽を浴びている。
上の方から、というとおれの乗ってる列車の上からだが
サッと一団の雀が舞いおり
野面に散開して
消えた。

フロリダのマイアミ空港を飛び立った
ドミニカ航空会社の双発DC3機が
カリブ海を南下している。
低空をヤシの木がかすめ去り
ガタン、ガタンとひどいバウンドで着陸すると
そこはドミニカの首都サントドミンゴのターミナルだ。
カメラを肩にかけた一人の日本人がタラップを降りてきた。
どこかで見かけたことがある男だ。
そうだ、きみは ついこの間
ベトナムのジャングルにいたあの……
よう、またこんなところで!

ふと眼がさめた。
大歩危をすぎてから
小一時ばかりおれは眠っていたらしい。
雨はまだ降りつづいている。
前よりもだいぶはげしくなってきたようだ。
夢の中に現われた男は
それからどこへ行ったか。
ドミニカでは
革命軍が首都の中心街に立てこもっている。
ぐるりを米軍とOAS軍が取り巻いているかっこうである。
とまあおれも海をこえてきた。
鉄条網はないが
県境もこえたのだ。
この旅の終着駅
南国土佐の首都はどうか。
身分証明者は持っていない。
おれを入れてくれるか?
日本人詩人、OK! とくるか?
準急「はまゆう」は
土讃線の雨を突いて
一路カーマニョのバリケードに向って進行中である。
「御免」という妙な名前の駅を
いま通過した。


「土讃線」は、四国地方を南北に横断する鉄道。全長 198.7km、香川県多度津を起点に高知を経て窪川 (高知県) にいたります。1889年多度津ー琴平間が讃岐鉄道として開通し、1906年に国有化。その後、琴平と須崎から延長工事が進められて、35年全通しました。 51年に窪川まで延長。阿波池田で徳島線、窪川で土佐くろしお鉄道と連絡。 87年4月に民営化されました。

1965年には、カリブ海のドミニカ共和国で起きたドミニカ内戦が起こっています。同国では、61年、独裁支配を行っていたトルヒーヨが暗殺され、翌年末に行われた自由な選挙ではフアン・ボッシュが大統領に当選。彼は63年に「ボッシュ憲法」とよばれる民主主義的な憲法を制定したほか、キューバと国交を回復するなど自主的外交政策をとりました。

しかし、63年9月、親米派軍人のクーデターによって追放され、レイド・カブラルに率いられる軍事評議会が政権を握ります。これに対して65年4月24日、ボッシュ大統領の復帰を要求してカーマニョ大佐に率いられる軍人が反乱を起こし、軍事評議会を追放しました。軍事評議会派の軍人もこれに対抗して蜂起しましたが、ほぼ4日間の戦闘で敗走させられます。

そのとき、アメリカのジョンソン大統領は海兵隊の派遣を決定し、総計1万数千人の海兵隊を送り込みました(4月28日)。同時に米州機構(OAS)にも派兵を要請し、ブラジルを中心とする米州平和維持軍がドミニカに上陸(5月24日)。これによって形勢は一挙に逆転し、カーマニョ派は守勢にたたされ、米州機構の仲介で停戦が決定しました(8月31日)。その後、カーマニョは大使として外国に退けられるなどアメリカのペースで政治が進められ、翌年6月の大統領選挙では親米派のバラゲールが当選しました。

「大歩危」(おおぼけ)、「小歩危」(こぼけ)は、徳島県西部にある吉野川の峡谷。高知県側から東流してきた吉野川が四国山地を横断する際、北流して横谷をなす約20kmの間をいいます。ボキ、ボケは山間の断崖地の呼称。この両岸は標高1000m前後の山がせまり、かつてはわずかに小路が通じていました。1935年、川岸に沿って開通した土讃線の阿波川口駅から南に5kmで小歩危,さらに4kmで大歩危となりますが,その間がとくに峡谷美をなしています。大歩危は奇岩や怪石が多く、深い淵があって男性的で、小歩危は岩石の露出が少なく、奇岩も小さく女性的といわれます。

*土讃本線は讃岐と土佐、つまり四国の北側と南側を結ぶ国鉄幹線である。県境に大歩危・小歩危の名勝があり、高知へ入る手前に後免=写真、wiki=という駅もある。雨をついて南国土佐の首都高知に向っている「おれ」は、夢のなかでドミニカの首都サントドミンゴへでかけている。そこでは革命軍が米軍とOAS軍(米州機構軍)に取り巻かれて戦っている。最初15行の目のさめるようなすべり出し。後免という地名にかけたウィッティな結び。まさに小野調ともいえるが、もっとも小野調だというべきは、南国土佐行とドミニカ行とのこの重ならない重なりを重ねてみる作品造型だ。しかもこの作品で小野は重なったまま自ら移動している。この移動感覚が「空想」をしっかりと支えている。《安》

2017年8月15日火曜日

北越雪譜

   北越雪譜

野山をかすめて
ま綿を投げたようにふる雪の中。
北越では
きょうも列車が立往生だ。
前に二台とうしろに一台。
三台の機関車が吐く黒煙が
雪空にまっすぐに高く立ちのぼっている。
ふとおれは気がつく。
車内にとじこめられて
さっきからうたたねしていたやつらの服装が
なんともみな物々しく異様なことに。
まるでその風態たら
一世紀ほどむかしの
メキシコかベネズエラかどこか中南米あたりの革命軍の兵隊さながらである。
日本の農民は変じて
いつこんな装束をまとうことになったのか。
白いつば広帽子のあご紐をしめて
銃身の長い旧式鉄砲をたずさえ
肩から弾薬帯をかけわたしているのだ。
陽灼けした顔に八字髭など生やしているやつが多いが
どうもそれはこの地方の風習ではない。
そう云えば
やつらの足もとにころがってる酒壺のかたちも
あまりこのあたりでは見かけないものだ。
中味はどぶろくや焼酎ではなく
なんとかいったな、あれは、テキーラ?
竜舌蘭の葉っぱからしぼった
もっとすごく強烈な酒かもしれない。
してみると
ここは雪におおわれた北越の山中の針葉樹林地帯だということがおかしい。
外はシャボテンなんかが生えている岩石砂漠。
いま照ってる太陽は
灼きつくような熱帯の太陽ということでなければ。
おれはそう思いかける。
いや、夢うつつの中ではまさにそうなってくる。
だが、たぶん雪おろしをしているのだろう。
どこかで
農家の父と子が交わしてる
おれにとっては悲しくもなつかしい日本語が
そのとききこえてきた
 はよ あがって ござい
 おい いまいくすけ んななん さぎ ままけ
 いやの まってんわの
 いま ずっき いくど……


「北越雪譜」(ほくえつせっぷ)=写真、wiki=は、江戸時代後期の越後の自然と生活を描写した書物。著者は越後塩沢の人、鈴木牧之で、山東京山編、山東京水画、初編3巻、2編4巻の計7巻からなります。初編は1837年(天保8)、2編は41年に出版されました。書名のとおり、雪を自然科学的な目からとらえた記述が中心で、日本の科学誌の先駆的存在ともいえます。越後の産業や生活についても記されていて、経済史や民俗学の研究にも貴重な資料となっています。挿絵が多く入れてあるのも特徴です。

牧之がこうした書物を著す動機となったのは、20歳前後の江戸行きにあるといわれています。華やかな江戸の生活に比べ、「雪」という宿命を負わされた故郷の様相を世間に知らせたいという願いからであったようです。牧之はすでに20代後半からこの出版を計画していましたが、頓挫を繰り返し、目的を達成するまでには40年の歳月が費やされました。

この詩集が出された1960年代には、中南米最大の反政府武装組織「コロンビア革命軍(FARC)」も生まれています。農民の自警組織として1960年代初頭に活動を始め、64年には既存体制の打倒を目指して武装闘争を開始しました。麻薬取引や誘拐による身代金を主な資金源とし、最盛期には2万人超の兵力を有するようになりました。91年の大手電機メーカー社員誘拐事件や2001年の日系現地法人役員誘拐・殺害事件など、日本人も被害に遭っています。

*北越の雪のなかで立往生した列車のなかで小野は、乗客である日本の農民が中南米あたりの革命軍の兵隊に変貌するのを見る。窓の外も「雪におおわれた北越の山中の針葉樹林地帯」ではなく、「シャボテンなんかが生えている岩石砂漠」でなければということになる。その夢うつつの中を「悲しくもなつかしい日本語」、まぎれもない日本語がきこえてくるのだ。
 小野は日本の風景と異国の風景とを垂直に重ねあわせるという操作をよくする。「スカンボの花とチョウデの花」では、スカンボの花咲く信州の裏山が、チョウデの花咲くディエンビェンフー盆地の山道と重ねられる。「城砦」では、子供たちが陣地づくりをして遊ぶ大和の山が、猛烈な爆撃に吹っとぶグアーダラマ山脈の岩石と重ねられる。水平的にとうてい重ねられないものを垂直的に重ねあわせることによって、遠近法の測定をしているのだ。これは連想などといえないもっと直接的な操作だ。重ねあわせるのは無理は承知で重ねあわせて、重ねあわせることができるではないかと一瞬おもわせて、さて、本当に重ねあわせるにのには何が足らないか、何が必要か、などという測量を想像力に課しているのだ。この詩集が「現実と相わたることなきユートピヤと受けとられることは、いまこの詩集を出すわたしのむしろのぞむところ」(「あとがき」)という小野の言葉の底には、このようなプログラムの意識がしっかとあるのだと想像する。
 題名の『北越雪譜』は、江戸時代の随筆集で、日本における科学随筆の先駆ともいうべきもので全七冊からなる。著者鈴木牧之(1770-1842)は越後国塩沢の人で質屋と縮布問屋で産をなした。
 安東次男は牧之の「風雅をもつて我国に遊ぶ人、雪中を避けて三夏のころこの地を踏むゆゑ、越路の雪を知らず。然るに越路の雪を言の葉に作る意ゆゑたがふ事ありて我国の心には笑ふべきが多し」と引いて次のように述べている。
「その説くところ、いわゆる花鳥諷詠の情の形骸化をするどく衝いている。小野の詩篇は、現代において鈴木牧之の反風雅を受け継いだらこのような作品になった、と解すれば面白い。そこで編者は作者にただしてみたが、『題名を借りたまでで、詩の主題と直接関係なし』という答えを得た」(『日本の詩歌 第20巻』)
 小野の心は『北越雪譜』の風雅・反風雅にはなかったのだ。小野はシャボテンなんかが生えている岩石砂漠で、雪おろしをしないと生きられない雪国の「悲しくもなつかしい日本語」に耳奪われていたのだ。
 この作品の最後の四行(「はやくあがってきなさい」「おい今いくからおまえたちさきに御飯をたべろ」「いいえ待っているよ」「今じきにいくよ」)は、新潟県北蒲原郡堀越小学校六年加藤敏子の「日がくれても雪おろし」という詩から採ったものである。
 夕方になっても
 父は屋根の上からおりてこない
 こもりしながら出てみると
 一しょうけんめい 雪かきをしていた
 「はよあがって ござい」
 「おい 今いぐすけ んななん さぎ ままけ」
 「いやの まってんわの」
 「今 ずっき いくど」
  雪が どさっ どさっと 屋根からおちてくる
 父のかげが
 雪のところに くろく見えた。
  (『綴方風土記第7巻北陸山陰篇』平凡社)《安》




2017年8月14日月曜日

シェーラの山

   シェーラの山

太陽はむろん
はじめておとずれた土地では
空の青さがちがう。
はじめて行ったところでは
木々のたたずまいも同じではない。
石にさす影もちがう。
鳥がいても、馬がいても
それは同じ鳥でもなく馬でもない。
いま、このように
世界のどこかに
陽があたり
風が吹いているか。

シェーラの岩石地帯で
一人の日本人の画家が半日道に迷って
やっとある部落にたどりついた。
そこには泉が湧き出ていて
村の女たちが列んで洗濯していた。
彼はそのそばに車をとめた。
そしてよごれたセーターを脱いで
それをつかんで泉のふちに立った。
すると、と彼はわたしに言ったのだ。
少しはなれたところにいた女の一人が
おれのそばにやってくるなり
身ぶりでおれを制して
おれの手からセーターをもぎとり
また元の位置にもどって
まるでそうすることが自分の当然のつとめでもあるように
水に浸し、濯ごはじめた
あっけにとられたね、おれは
スペインの秋の太陽は強烈だ
きみ、あれはほんとうだね、子どもがよく絵に描くだろう? ヒゲの生えた太陽を
そのとき おれには
太陽はほんとうにそう見えた。
話を終えてパイプを再び口にした彼は
え? といぶかしげに
わたしの眼の奥をうかがった。
かつてのバスクやカタロニヤの諸州に
つかのまに生れては
つかのまに崩壊した部落コンミュン。
その民家の土壁や広場の砂を
代赭色に染めた
スペインの秋の太陽が
なおかくかくとして
わたしの網膜の上にあった。


「シェーラの山」とは、シエラ・ネバダ山脈(Sierra Nevada=「雪の山脈」の意)=写真、wiki=のことでしょう。スペイン南部アンダルシア地方、地中海沿岸に東西80~100km、南北40kmにわたって連なる山脈です。

「シェーラの岩石地帯」は、おもに結晶質岩石と古生層で、新期造山運動によって形成された褶曲山脈です。最高峰はムーラセーン山(3478m)で、これはイベリア半島の最高峰でもあります。シエラ・ネバダは万年雪に覆われ、3000mを超えるところにはカール、2000m前後にはモレーンなど氷河地形が形成されています。

スペインでは、1931年4月の自治体選挙で共和派が勝利し、ブルボン朝のアルフォンソ13世が退位すると、共和派、農民・労働者・知識人は当時のソ連の繁栄の影響を受けて、社会主義政権発足を目指しはじめました。当時スペイン国内に散在していた共産党をはじめとする社会主義政党をまとめ上げて、1936年2月の総選挙で右派を抑えて勝利し、挙国一致内閣を成立させます。これに反する軍部・右翼・地主・旧貴族・カトリック教会などの保守階級は当時モロッコに赴任していたフランコ将軍を推してナショナリスト軍を結成、1936年7月、人民戦線政府に対し反乱を起こします。これによって、スペイン内戦が始まりました。

ソ連をはじめ、世界各国の社会主義政党、共和派、反ファシズム勢、国際旅団の援助を受け人民戦線はしばらくは持ちこたえましたが、ファシズム政権の誕生を期待したドイツ、イタリアなどのファシズム国家の大量の軍事支援を受けたナショナリスト軍は圧倒的軍事力で人民戦線を壊滅に追い込んでいきます。拠点の一つだったカタルーニャ地方のバルセロナが陥落したことにより、1939年2月に人民戦線政府は国外に亡命し、4月にナショナリスト軍は首都のマドリードを攻め落として内戦は終結しました。

この間、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ、サンタンデール、ヒホンなど主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領されました。4月26日にはバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52輸送機を改造した爆撃型主体の24機による空襲(ゲルニカ爆撃)を受けました。これは前線に通じる鉄道・道路など交通の要だった同市を破壊して共和国軍の補給を妨害するためのもので、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出ました。これが、有名なパブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材となりました。

*出だしの12行で、人が「異郷」への旅でまず味わう心の震えがまるでそれ自体一篇の詩であるかのごとく彫り深く歌われている。もちろんこの作品の本題はそのあとにあるのであって、友人の画家がスペインで経験したことが語られる。村の女が「まるでそうすることが自分の当然のつとめでもあるように」よごれたセーターを泉で洗ってくれたという話をきいていた「わたし」は、「かつてバスクやカタロニヤの諸州に/つかのまに生れては/つかのまに崩壊した部落コンミュン」を想起する。読者は小野とともに「部落コンミュン」を幻想することになる。《安》

2017年8月13日日曜日

自然も斗いに参加する

   自然も斗いに参加する

河は
赤くにごった
巨大な水量を
下流に向っておしながしている。
しばしの晴れまに
陽を一ぱいに浴びたあたりの山肌は
浮彫されたようにあざやかだ。
生いしげった熊笹が風にそよいでいる。
水草の花の白いつぼみもふくらみはじめた。
木の間には
鳥たちもさえずっているだろう。
天地のあいだはしずかだ。
ただそこに一本の棒杭が立っていて
後ろ手にしばられた少年がその下に倒れている。
処刑は終った。
ベレーの軍帽をかぶった大男が
つかつかとよって
やおら拳銃をひきぬいた。
とどめの一発を
少年のこめかみにぶちこんだ。


ベトナム戦争では、民衆の虐殺事件もたくさん起こりました。ソンミ事件=写真、wiki=は1968年3月16日、南ベトナムのクアンナム省チュライ米軍基地の西方数マイルのソンミ(ミライ)村でアメリカ軍が一般住民500人以上を大量虐殺した事件です。事件は長く不問に付されていましたが、19か月後の69年11月になり、衝撃的なニュースとして大騒動になり、責任者のウィリアム・カリー中尉が逮捕、71年4月有罪判決を受けたが、ニクソン大統領の命令で釈放されました。

この事件は孤立した事件ではなく、無数の類似の事件のなかからベトナムにおける米軍作戦を象徴する一事件として、当時のベトナム戦争反対のアメリカ内外の世論を一挙に高める役割を果たしました。この事件は、米軍基地の安全を確保するために基地周辺を徹底的に掃討して無人地帯をつくりだすための作戦の一つにすぎなかったとされます。

*名人芸といってもいい技巧の冴えには目をみはるばかりだ。この作品が、残酷な処刑が行われたが、河はそんなことも知らぬげに流れている式の作品であるなら、なにも小野をわずらわすことはない。この作品が小野の作品でなければならぬ必然は「自然も斗いに参加する」という題名に端的にあらわれている。河も山も熊笹も水草の花も鳥たちも、ベトナムの自然が処刑の場を取り囲み、処刑をみとどける。みとどけるだけではない。ベレーの大男を「敵」として指さす。あれは敵だと。『とほうもないねがい』以後の詩にあらわれる自然は、えがかれるもの、そこにあるものというよりも、もっとアクティブな存在、積極的に人間に加担し、人間と共に動くものとして捕えられている。《安》

2017年8月12日土曜日

サイゴンの南方メコン川下流のデルタ

知らない国の
知らない土地だ。
どっちが敵で、どっちが味方か
この「ムービー・トン」のフィルムは語らない。
ただ太陽も景色も同じ。
夕映えの地平に
突如、降って湧いたように
黒い小型爆撃機が姿を現わして
水田地帯の平坦な一本道を急ぐ土民軍団を
低空から掃射してくる。
ダ・ダ・ダと
路上に突き刺さって
土煙をあげる機銃弾。
間髪をいれず
左右に散って将棋倒しに身を伏せる民たち。
知らない国の知らない土地で
いまこのときも起っていることだが
どっちが敵で
どっちかがおれの仲間であることにはまちがいない。
キーンという爆音をのこして
画面の外へ
大きな影となって飛び去ったもの。
そしてあのまだうつ伏せになっている者たち
土に顔を埋めて
起き上がらない……


「メコン川下流のデルタ」すなわちメコン・デルタは、東南アジアを流れるメコン川下流に広がる三角州(デルタ)。カンボジアの首都プノンペンから下流の沖積平野をさします。面積約7万平方キロメートル、うち約300万ヘクタールが稲作地で世界的な大産米地帯を形成しています。雨期にはメコン川の水がトンレ・サップ湖に逆流するため、メコン・デルタの稲作の安定に役だっています。雨期の冠水の深さによって三つの地域に分けることができます。

もっとも水位が高いところは浮稲栽培地帯、低いところは1回移植地帯、その中間は2回移植地帯です。浮稲は茎の長さが6メートルもある稲で、1日の成長は最大5センチメートルにも達します。メコン・デルタの米の平均収量は1ヘクタール当り1.5トンと日本の3分の1にすぎなませんが、労力も3分の1程度。デルタにはメコン川本流と分流とを結ぶ運河が縦横に走り、物資の運搬や交通に利用されています。これらの川や運河は淡水魚の宝庫でもあり、漁業も重要な産業となっています。

ベトナム戦争においては、メコン川の細かな支流に広がるジャングルや、カンボジア国境に多い小高い山に拠点を置いた南ベトナム解放民族戦線(NLF)とアメリカ軍との戦闘が繰り広げられました。アンザン省のトゥクズプや、ドンタップ省のセオクイットなどに戦争遺跡がのこっています。

*この作品もニュースの映像を小野独自のアングルにひきこんで出来あがったものである。「物象ことごとく割れて二つ」というあの断言がこの作品でも基調をなしている。つまり、「どっちが敵でどっちが味方か」わからないがとにかく人間が撃ち殺されているのだというふうには流れてしまわない。とにかく悲惨な戦争なのだというようには流れてしまわないのだ。「土に顔を埋めて/起き上がらない」者たちをみて、「どっちが敵で/どっちかがおれの仲間である」と峻別する・確認する位置に小野は立っている。朝鮮戦争を扱った作品で小野は暗示的方法によって成功したが、ベトナム戦争を扱った作品においては敵味方を峻別する思考によって鋼のような作品を生み出している。《安》

2017年8月11日金曜日

花びら

   花びら

ひざぼうしまで
水につかって
あたりをうかがいながら
自動小銃をかまえた兵が
森の中をながれる川の
川底の泥をふみしめて
おれの方にやってくる。
ザブッ、ザブッと
水をかきわける音がしている。
ベトナムの森か、ラオスの山奥か。
このゆるやかにながれる川のみなもとには
なにがあるのだろう。
川一面にちらばりうかんで
どこからかどっとおしながされてきた
水蓮のような白い花びらが
かれらの方に向って
ながれよって
いった。


この詩はアメリカの「ベトコン掃討作戦」のニュース映像を、ベトコンの拠点のほうから見ているようにアングルを変えて描いているようです。

「ベトコン」(Vietcong、ベトナム共産党)は、南ベトナム解放民族戦線の西側の呼び名。1960年12月20日、南ベトナムの各種政党や社会団体、宗派組織、民族団体はじめさまざまの勢力が参集し、アメリカの帝国主義勢力とゴ・ジン・ジエム政権を打倒、南ベトナムに民族民主政権をつくり、民主主義制度を確立することを目標として結成した民族統一戦線です。

1962年1月、南ベトナム人民革命党が組織されて解放戦線の中核体となり、サイゴン政権の警察政治、強大なアメリカの軍事力に対して熾烈な戦いを継続しながら、1969年6月に南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立しました。

1973年1月にはベトナム和平協定に調印、75年4月北ベトナム軍とともにホー・チ・ミン作戦を行って南ベトナムの解放を成し遂げることになります。南北の統一後、1977年2月に解放戦線は北の祖国戦線と合体し、その使命を終えました。

*この作品について小野の自作解説を引用しておく。
「この詩は、(北ベトナムの詩人)タイン・テインさんの話をきいた数日後、家内といっしょに近所の劇場へ何か映画を見に行った時、フォックス・ムービートンのニュースに偶然写し出されたベトナム戦争のある一コマにもとづいて書かれたものである。映像に即していえば、この詩と寸分狂いのない光景をアメリカのニュースはとらえていた。タイトルは、いうまでもなくベトコン掃討作戦である。……私のこの詩は、カメラのアングルを変えて、そのベトコンの拠点を向こうから見るのではなく、こちらの方に置く、つまり観客席にいる自分の方に置きかえて書いた詩である。膝まで水に没し、自動小銃を構えてやって来る兵たちは、私の方に向かってやって来るというわけである。そして、白い花びらは、私の方から、私の内部から彼らの方に向かって、どっと流れよっていくという構想。フォックスのニュースカメラがとらえたベトナム戦争の一コマを見た私に、このようにとっさにそのカメラの位置とアングルを変えさせたものは何なのか。それが読者に電流となって伝わるならば、作者は、花びらにどのようなイメージを託しているか、それもただちにわかるだろう」(『現代詩鑑賞講座第一巻』角川書店「荒廃の季節とわが詩作」)
 この「白い花びら」はもちろん感傷や詠嘆とは無縁である。川岸の木蔭に身をひそめている「おれ」が自動小銃かまえて近づいてくる「敵」へ撃ちつづける敵意の銃弾ではないだろうか。白い花びらが一面に流れている川に今、「おれ」がいて「敵」がいるのだという状況が、むしろ過酷なまでにやさしく美しいイメージによってきびしく歌われているのだ。《安》

2017年8月10日木曜日

雲も水も

   雲も水も

雲も 水も
木々の芽ぶきも
それをながめるとき
われらのねがいの
なんと異なること
一つとしてつながらぬさまざまなおもい
花ひらく野に出ても
敵は敵


きょうから、第11詩集『異郷』(思潮社刊)に入ります。この詩集が出た1966(昭和41)年は、ベトナム戦争のさ中にあたります。ベトナム戦争は、第2次世界大戦後の冷戦下、インドシナ半島の旧フランス植民地で起きた戦争。親米のベトナム共和国(南ベトナム)の独裁政権打倒をめざして1960年12月、南ベトナム解放民族戦線が結成され、共産主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)が支援しました。米軍は65年2月から国境を越えて北ベトナムに大規模な空爆(北爆)を開始。73年1月に米軍の撤退を主内容とするパリ協定が調印され、南ベトナム政府は75年4月に無条件降伏しました。ベトナム人の犠牲者は軍民合わせて120万~170万人という推計もあるそうです。

*この詩集の序詩とみていいだろう。やさしく美しく歌われているこの詩の基本構造はきびしい。『とほうもないねがい』の「もののかたち」において小野はすべての人間を「一つの眼」と「も一つの眼」に峻別して「物象ことごとく割れて二つ」と断言したのだが、この詩においても小野は「敵は敵」と峻別し、不用意に無自覚に手を握りあうことを厳しく拒絶している。自然によって人間の思いが馴らされて同化することなく、かえっていっそう明確に思想があらわにされるダイナミズムが「花ひらく野に出ても/敵は敵」という2行に美しく硬く結晶している。《安》

2017年8月9日水曜日

床の下

   床の下

あかん あかん
おばあさん
そんなものを かんたんに
息子や孫に持たしたら
刃物は禁止や、な、せやろ
おばあさんたち あばあーさーん
おばあさんはどつんぼか
アンダルシヤは遠すぎる
青いライトに照らされた
ガルシヤ・ロルカのお芝居の
百姓ばあさん 知らん顔
床の下から掘り出した
木箱の蓋をこじあけて
筳にくるんだ小銃を
扉をけつて つぎつぎと
かけこむ孫らに
一ちようづつ
終始無言で
わたしてる。


「アンダルシヤ」=写真=は、スペイン最南部の地方のことをいいます。8県で自治州アンダルシア州(州都はセビリア)を形成しています。フラメンコ音楽と闘牛の発祥の地。北部は、オリーブ栽培が盛んで、南部の山間盆地では灌漑農業が行われています。アンダルシア料理は、魚介類とデザート、世界的に有名なシェリー酒で知られます。

「ガルシヤ・ロルカ」(1898―1936)は「アンダルシヤ」出身の詩人、劇作家。スペイン内乱勃発直後にフランコ側によって射殺されました。故郷アンダルシアの精神を伝統的な詩型と多彩なイメージを用いて劇的に表した『ジプシー歌集』(1928年)によって独自の世界を切り開きました。


*この作品では百姓ばあさんが息子や孫に小銃を無言で渡すその動作に意識が集中しているために、「武器イメージ」は前二作よりも指向性を持って凝縮している。《安》


2017年8月8日火曜日

とほうもないねがい

   とほうもないねがい

あれがほしい
あれが
あれつてなんじやい
あれだよ あれだよ 見えつだろ
すすき 尾花は陽に透けて
お山はくつきり晴れている
それがどうした わかんねえ
他になんにも見えないが。
お母ァにあれが見えぬとは
おいらの村の岩蔵が 三等陸士の星つけて
バズーカ砲をかついでらあ
すすき尾花の丘の上
白りんどうも咲いている。
それは見えるが なんなんじや
あれだよあれだよ岩蔵が
肩にかついだバズーカ砲
あいつを一ちようもらいてえ
なにをいうぞよ おとろしい
なあに わけはないことさ
操縦法はかんたんよ
おれとお母ァが一組で
細身の弾をこう持つて
筒の先からすべらせる
ただそうれだけよ かんたんだ。
すすき 尾花のたんぽ道
バズーカ砲で雀追い
ほしいな ほしいな 岩蔵よ
そいつをちよつくら持つてきな
ついでに戦車とゆくめえが
あれをたたんで
おだちんに
おいらの村に
持ちかえれ。


「バズーカ砲」=写真、wiki=は、対戦車攻撃のため第二次世界大戦中にアメリカで開発されたロケット弾発射機。軽量簡単な滑腔砲身の発射筒で、砲身の先端がらっぱ状に広くなり、これが当時の喜劇俳優ボブ・バーンズ愛用のらっぱ「バズーカ」に似ていたことにちなんで名づけられたそうです。兵士1人が肩に担いで照準・発射し、ほかの1人が弾薬を後方から装填します。

砲身は軽金属製の円筒で、簡単な照準具と発電機、引き金が装置され、弾丸は成形炸薬・弾頭着火の弾底信管のほか、推進用火薬を内蔵し、この推力によって飛行します。弾丸が命中すると成形炸薬のノイマン効果で発生した数千度以上のジェットで戦車の装甲を溶融し、内部の兵員・機材を殺傷破壊します。

陸上自衛隊装備のバズーカ砲は、89ミリロケット発射筒で、全長1535ミリメートル、重量6.8キログラム、電気発火方式、発射速度は毎分8発(最大)、弾丸初速は102メートル/秒、最大有効射程600メートル、弾丸重量は3.3キログラム、とされています。

*自衛隊のバズーカ砲を村に持ってかえって雀追いをしようというこの作品もまた小野のいう「武器コンプレックス」から出た発想である。「わけはないことさ」「ただそれだけよ かんたんだ」と「とほうもない」「おとろしい」という相反する二つの言葉のあいだで、だからこそ「所詮は虚構か悪夢の世界の出来事」であっても「なかなか意味がある」のだ。《安》

2017年8月7日月曜日

野辺歩き

   野辺歩き

この杖を
一ふりすると
小川に光る
ねこやなぎのブッシュが
榕樹の森になる。
春さきの日本の小川に
水しぶきをあげて鰐がすべりこむ。
麦畑は砂糖黍畑に変じ
百姓たちは白い大きなつば広帽子をかぶる。
弾薬帯をたすきがけにかけわたす。
この杖を高く上げると
堆肥の中から
自動小銃の束が出てくる。
山裾の孟宗林から戦車が現れる。
この杖をおろすと
榕樹の森は
元のねこやなぎになる。
川にはまいまいつぶろだけ。
つば広帽子は消えてしまう。
自動小銃も 戦車も
あるべきところへ。


「榕樹」は、ガジュマル=写真、wiki=のこと。アコウに似たクワ科の常緑高木で、熱帯アジアからミクロネシアに広く分布し、沖縄にも自生します。ガジュマルは沖縄の地方名のようです。果実は径8ミリメートルほどで、赤褐色に熟し、野鳥が好むといわれます。潮風に強いので、熱帯では防風用生け垣や庭園樹に、心材は細工物に用いられます。

「孟宗林」は、「孟宗竹」林のことでしょう。孟宗竹はアジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種。日本のタケ類の中では最大で、高さ25mに達するものもあります。冬に母のために寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなんでいます。

「まいまいつぶろ」は、東京弁で、カタツムリのことをいいます。

*井上俊夫は次のように疑問を述べている。
「ここで小野は詩を書くこと(あるいは詩人の想像力)の限りないむなしさについていいたかったのだろうか。それとも意識と現実の矛盾と相剋か。それとも、いわゆる抵抗詩とよばれるものに対する不信と諷刺か。またはいちじるしく実行力を欠いた日本の前衛政党に対する批判なのか。私はいくつもの解答のメスを用意し、それをこの作品につきたててみる。けれどもこの20行あまりの短詩からは、ついに血のしたたるような手応えを得ることができなのである」。
 この疑問に対して小野は次のように答えている。
「おそらく井上俊夫も、この詩をいま読まれた読者もなっとくしないだろうけれど、およそ武器と判定していいほどのものは全部一方的に蓄積されていて、片方側には無いという現代社会における状況を、どちらの側も平等に所有しているか、平等に所有していないかという状況に還元し均らしてしまいたいというわたしのひそかな願望のごく自然発生的な表現である。……実際は、どちらか一方に偏在していることによってそれは武器なのである。持っている奴は放さない。なおその上に増やしていく。持ってない奴ときたら徹底的に持ってない。また、持たせようとしない。わたしはそれでは不公平だとおもうし、不安でもあるから、ときに〝魔法の杖〟を一閃させて、日本の田園風景を民衆の武装蜂起の舞台に変えてしまう。所詮は虚構か悪夢の世界の出来ごとであり、そこにひき出された大砲がクートオのあの透明で抽象的な大砲のごときものであっても、この芸当はわたし個人にはなかなか意味があるとおもっているのだ」(『奇妙な本棚』)。

2017年8月6日日曜日

もののかたち

   もののかたち

霜がおりた冬庭の
山茶花の木のかげもちがう。
苔の発色も バラの木のバラのトゲも
風の中のスゲ草の穂のゆれ方も
同じではない。
一つの眼と も一つの眼。
しずけさも 悲しみも
苦しみも今年はすべてちがう。
夜明けの三池の空を見る。
そこにはボタ山の黒い影がある。
いま、このとき、それは
それを見るすべての人間に同じであろうか。
そんなことはあり得ぬ。
どこにいても いかなるときにも
木、草、石、水。
物みなにある陰影はもはや同じではない。
一つの眼と も一つの眼だ。
仰げば 凍る大気の中に
異常に明るい太陽が静止している。
その火を噴くような太陽だつて
どうしてそれが同じ太陽であるはずがあろう。
物象ことごとく割れて二つ。
よろこび のぞみ。
すべてがちがう。
ちがうのだ、今年は。
われらにあるものを
誇りとする。


「三池」=写真、wiki=は、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる炭鉱。1469年に三池郡稲荷村の農夫が、稲荷山で焚き火が黒石に着火したのを見て発見したと伝えられています。享保6(1721)年、柳川藩が稲荷山の隣地平野山に開坑。安政3(1856)年には三池藩が平野山の隣地生山に開坑すると境界争いが起こり、工部省は1873年、これらの炭鉱の官有を決め、1875年には工部省鉱山寮の支配下に置いて三池鉱山として採炭を始めました。

1876年、イギリス人技師ポッターの指導で大浦竪坑を開削、また宮原と万田にも新坑が掘削され、炭鉱の近代化が始まりました。1889年には三井物産に払い下げられ、団琢磨を事務長とした三池炭礦が設立されます。三池炭田のうち三池本層、三池上層および三池第2上層の 3層を採掘しました。

採掘区域はすべて有明海の海底だったため、初島と三池島の人工島を海上に設けて通気、運搬に供しました。戦後、石炭産業が衰退していくなか、1959年に労働争議が勃発、大きな社会問題に発展します。1963年には三川鉱で爆発事故が起こり、458人の犠牲者を出しました。石炭需要の減少で1997年3月に閉山しました。

*もののかたちが「同じではない」といっても、色々あるといっているのではない。はっきりと「物象ことごとく割れて二つ」だといっているのだ。「一つの眼」と「も一つの眼」とで「割れて二つ」なのだ。井上俊夫はこの作品について「芸術的完成度は他の作品に比して低いが、それだけに小野の模索と苦悶のあとも歴然たるものがある」と述べている。「芸術的完成度」が低い「模索と苦悶」のあと歴然という感じがわからないではないが、むしろ、前出の作品「リンゴの血」「このはずくの目の中」とともにこの作品は、これまでの小野になかったものがあらわれているのに私は特に注目したい。実のところ、このような詩を書くことで詩人は次の詩を書くための武器を入手することにもなるのだ。そして、事実このあとに並べた一連の兵器のイメージを核とする作品はこの「割れて二つ」という考えと無縁ではない。次の詩集『異境』にこの作品の延長があきらかにあらわれる。《安》

2017年8月5日土曜日

たばこの火

   たばこの火

不眠症か。
どうしたのだ、きみは。
椅子をおりて。
だれもいない通路にひとり立つている。
カーテンを重くたらした三段の寝台は
みな棺のように寝しずまつているのに。
ブラインドをあげて
冷たい窓ガラスに額をくつつけて外を見ると
外はまだ真暗である。
だが、いまはここがどこだか
きみには気配でそれがわかる。
闇の中をすぎてゆくのは由比、蒲原、岩淵の海岸線だ。
連結器のきしむ音をまじえて
ごとごと ごとごと
ごとごと ごとごと
ごとごと ごとごと ごとごと ごとごと
ときどきガアッと全速で
窓すれすれにとんでくる防波堤が
きみの視線をさえぎる。

急行「彗星」の赤い尾灯を追つて
線路に併行した暗夜の国道を
重量トラックの大編隊が行進している。
列車と等速だから
その間隔はひろがりもちぢまりもしない。
各車輛は何か巨大なものを積載しているが
蔽いがかけられていて何であるかわからぬ。
ただ見えるのは
つらなるヘッドライトと
星のマークと
運転台にいる作業帽をかぶつた大男がくわえている
たばこの火。


「由比、蒲原、岩淵」は、静岡県の中部の地名。いまは由比と蒲原は静岡市、岩淵は富士市に属しています。由比と蒲原は東海道五十三次の宿場、岩淵も江戸時代には富士川の渡し場もあったことから、東海道の間の宿として栄えました。

「急行「彗星」」は、東海道本線、山陽本線、日豊本線を経由して京都―南宮崎間を結んでいた国鉄の寝台特別急行列車。1968年10月に新大阪―宮崎間で運転を開始し、運転区間の拡大や増発を繰り返し最大5往復が運転されていました。1980年代以降は新幹線や飛行機に客足を奪われ、2000年には「あかつき」と併結されるようになり、2005年9月に廃止されました。列車名は当時、夜行列車は天体から、という慣例があったそうです。

*小野が『火呑む欅』の「深夜の富士」、『重油富士』の「重油富士」など、一連の作品で追いつづけてきたものの到達点を示すといっていい見事な作品である。あるがままに書くしかないのだというようにぐいぐいと書き進められていく筆致は、重量トラックの運転台にいる大男がくわえているたばこの火にいたってぴたりと止る。この描写のつみかさねの進行速度と停止の感覚のなかに、小野が示したいことがらが充填されているのだ。闇のなかで時々あかるくなるたばこの火は「たえず世界を内包し世界に於ける何らかの事件の核心にむかって冷静な凝視をつづけている」(長谷川龍生)ものとして小野が摘出したものだ。『とほうもないねがい』を批判した井上俊夫もその批判のなかで「たばこの火というありふれた日常性に、これだけの重い危機感と威圧感をあたえ得た詩人は小野の他に誰もいないことを認め」る。(「現代詩手帖」37年10月号「完成の香気と腐敗の悪臭」)

2017年8月4日金曜日

白いにわとり

   白いにわとり

にわとりは
そのとき
だれからも忘れられて
ひとりになつた。
明り窓に板きれが打ちつけられている炭坑長屋の
厨の片すみの暗いところで
まぶたをとじて
にわとりはうずくまつていた。

なにごとが起つたのであろう。
掠奪されたあとのような
人かげのまつたく見えない部落。
凍てついた道に
うつすらと冬陽が射している。
そこにも取りのこされて
いつも二三羽の白いにわとりがいる。
にわとりだけがいるのだ。
大洪水のとき
天地をくつがえすばかりの
ごうごうたる濁流に半ば没してながされていく人家の屋根の上に
どんなはずみにか ひとりかけ上つて
とまつているやつもいる。
おもえば あいつにしたつて
最後の最後まで取りのこされたのだ。

どうしてそんなことが?
人間はどこにもいない。


筑豊や石狩など炭鉱都市周辺には数多くの炭鉱住宅、いわゆる炭住がたくさんありました。ふつうは炭鉱会社が建設して、光熱費を含めて住宅費は無料でした。かつては木造の長屋形式「炭坑長屋」が中心で、卵を産ませるため「にわとり」を飼っている家もたくさんあったと思われます。

戦後には急速にアパート形式の集合住宅も盛んに建てられました。長屋の住宅街として賑わいを見せた炭鉱住宅も、1960年代以降のエネルギー革命による石炭産業の衰退にともなって、取り壊されたり廃屋となっていきました。

それにしても「炭坑長屋」と「にわとり」というのは、映像的にも、それらが秘めている意味合い、存在感からしても、実に絶妙な取り合わせです。

*最後の最後まで取りのこされたもの。にわとり。この白い鮮明なイメージが人間の不在を示しているところにこの作品の結構がある。「どうしてそんなことが?」という問いは「白いにわとり」に向うと同時に、逆方向に、「人間はどこにもいない」という一行に向っている。そこで無人の炭坑長屋という人為的事件の残像が諸々の人為的事件とむきあうことになる。《安》

2017年8月3日木曜日

土民の手

   土民の手

アルジェリヤの砂漠で
ゲリラの土民が
重機関銃を分解している。
おれの指はまだこのように知的に
一個の物を愛したことがなかつた。
聖者のようなあご髭をはやした巻角カモシカが近くにいて
やさしい眼で
じつとその手の動作を見まもつている。
おれの指はまだこのように
かしこい生きものたしからふしぎがられたこともなかつた。
深夜、卓状の蛍光灯に
指をひろげると
血管がうすく透けて見える。
これは俺の手だ。


アルジェリアでは、1954年から1962年まで、フランスに対する民族解放戦争が起こりました=写真、wiki。アルジェリアは1830年にフランスによって侵略され、1834年以降その植民地支配のもとに置かれることになりましたが、以来白人移民(コロン)によるアルジェリア人の土地の収奪が進められ、またアルジェリア人に対する差別的な政策が導入されました。

この間アブデル・カーデルの反乱をはじめ数多くの抵抗運動が断続的に起こりましたが、ことごとく鎮圧されました。第一次世界大戦後フランスは部分的な改革を実施したがアルジェリア人の多くは満足せず、1926年にはパリ在住アルジェリア人やチュニジア人の間に「北アフリカの星」という名の政治組織が創設され、近代的な民族運動の時代が到来しました。

「北アフリカの星」は1930年代なかば以降アルジェに本拠を移し、民族運動はいっそう盛り上がりましたが、第二次世界大戦中ビシー政府の手で運動は弾圧され、「北アフリカの星」の後身であるアルジェリア人民党は禁止されます。大戦末期に創設された「宣言と自由の友の会」はアルジェリアの自治を要求しましたが、戦後の植民地改革にもかかわらず、アルジェリアはあくまでもフランス本土の一部とされたため、民族主義者の不満は限界に達します。

1954年11月、東部山岳地帯で開始された武装蜂起は、しだいに全国の農村地帯へ広がり、都市でもサボタージュやテロによる抵抗運動が頻発するに至ります。これに対しフランスは、当初延べ5万人にすぎなかったアルジェリア駐留軍を1958年までに50万人余りに増強し、解放闘争の鎮圧を図ったが成功せず、国内世論の分裂、巨額の戦費による財政難などによって、ついに第四共和政そのものの危機を招く結果となりました。

この危機を打開するためフランスは、1958年2月、宥和政策として地方自治の拡大を骨子とする新アルジェリア基本法を成立させましたが、これはアルジェリア人を満足させなかったばかりか、かえってアルジェリア駐留フランス軍の反乱を誘発することになりました。そこで、軍の支持を背景にドゴール将軍が政権を掌握して、同年10月に第五共和政を発足させます。他方、同年9月にはエジプトのカイロにアルジェリア共和国臨時政府が樹立され、ドゴール政府も9月にアルジェリア自決権を承認し、その後1962年3月の停戦協定(エビアン協定)、同年7月の住民投票を経て、アルジェリアは独立を達成することになりました。

*アルジェリア解放戦争を歌ったこの作品の発想を決定づけたのは「雑誌『世界』で見た、だれが撮ったのかもわからない、砂漠の砂の上で機関銃を分解している土民兵の姿をスナップした一枚の写真であった」(小野)という。この作品の解説をした村野四郎は「おれ」をゲリラの土民ととり、「血管がうすく透けて見える」手を土民の手だとしている。「彼(土民)は夜ふけてから、宿舎のテーブルの上の蛍光灯に、そっと自分の手をひろげてみる。しかし、その黒い手には、やはり前と同じように土人の血管が透けて見える。だがこれはもう昨日の手ではない。機械をいじった別の手だ。この革命を知った土人の手は、まさに新しい俺の手なのだ、と作者は土民の心理を追いかけている」(『鑑賞現代詩Ⅲ昭和』筑摩書房)。
 この解説は魅力的であって、いっそのことそうであったらとおもわせるのだが、実際のところ、「血管がうすく透けて見える」手は小野自身の「白い手」である。小野は夜ふけてから、書斎の机の上の蛍光灯に、そっと自分の手をひろげてみる。しかしその白い手には、やはり前と同じように血管が透けて見えるのだ。小野の自伝的エッセイ『奇妙な本棚』の第二章は「この白い小さな手よ」と題されていて、小野の「白い手」コンプレックスが丹念に語られているが、重機関銃を分解しているゲリラの土民の指に感動した小野がその手へ自己の手をかさねあわせてみることで生れてくる屈折を、読者もまた人それぞれの屈折を持って受けとめることができる。《安》

2017年8月2日水曜日

このはずくの目の中

   このはずくの目の中

ディーゼルカーの
震動する床の上に
一羽のこのはずくがいた。
霧ぶかい北但の山中で生擒にされた夜の猛禽は
真鍮色の大きな目を光らせ
止まり木のない籠の金網にしつかりとつかまつていた。
のぞきこむと
上体をそらしざま 嘴を半びらきに
おれの顔に向つて
はげしくとびかかつてくるような気勢を示した。
大きく見ひらかれた
このはずくの目一ぱいに
そのときふいに近接したのは
反射望遠鏡がとらえた穴ぼこだらけの半月の表面のようなものであつたのだろう。
おれはさらに近く顔をよせて
このはずくの目の中にはいつていつた。
そこは真暗だつた。
蝕知できる一個の体積の中に
何かがぎゆうつとつまつて動いていた。
なまぐさい けれども清潔な
血のにおいがした。
はらわたのにおいがした。


「このはずく」(木葉木兎)は、「ブッポーソー」(仏法僧)と鳴くフクロウ科の鳥。全長約20センチメートル、全体に褐色の羽色をしていて、上下面ともに暗褐色の縦斑があります。よく茂った森林にすみ、夜、ゴミムシ、オサムシ、バッタ、コガネムシなどの昆虫類をとって食べます。樹洞を巣とし、球形に近い白色卵を4、5個産みます。

ひとみの周りにある円盤状の膜である虹彩が、黄色なのが印象的です。作品のなかでは「真鍮色の大きな目」といっています。真鍮色とは、五円硬貨のような色と考えられます。

*ディーゼルカーの車中でみかけたこのはずくと小野はもろに立ち向う。そしてこのはずくの目の中へはいっていく。くりかえしくりかえされる小野の夢は、夢自体はどんなに動いても小野自身は動かないというスタティックな面を小野自身好んでいたといえるだろうが、この作品において小野は夢をひきずって動くことをあえてしている。このはずくの目の中へはいっていった小野は、そのむこうにこれまでのような世界をもはやみない。小野が見ているのは不定形の現実の異相とでも呼ぶべきものであり、小野を囲んでいる現実のより実質的把握がここではなされているのだ。この意味でこれは注目すべき作品である。《安》

2017年8月1日火曜日

きのうの雨

   きのうの雨

雨がやんだ。
青々としげつた柏の林の中に
光がさしこんだ。
梢にたまつた雨が
枝々の網の目をつたつて地面に向つてながれていた。
重なる上の葉つぱから下の葉つぱへ
そしてまたその下の葉つぱへ
ぽとぽとと断続的に
硫酸のような雨がしたたりおちていた。
きのうの雨には――
と新聞をひろげてだれかが云つた。
どうやらそれは
いまごろの
天地自然のことではないらしかつた。
それはおちていた。
上の葉つぱから下の葉つぱへ
さらにまたその下の葉つぱの上へ
蜘蛛の糸をもつたつて。


きょうから、1962(昭和37)年6月に、思潮社から発行された第10詩集『とほうもないねがい』の中の作品に入ります。

金星では、二酸化硫黄の雲から降る硫酸の雨が金星全体を覆っています。ニューズウィークによると、スティーブン・ホーキング博士は、ケンブリッジ大学で行われた75歳の祝賀記念講演で、「地球温暖化は後戻りできない転換点に近づいている」と指摘し、ドナルド・トランプ米大統領によるパリ協定脱退の決断がさらに地球を追い詰めることになると非難し、気温は250度まで上がって硫酸の雨が降る、まるで金星のように過酷な環境になると述べたそうです。

原子爆弾投下後には、原爆炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある黒い雨が降りました。放射性降下物(フォールアウト)の一種で、広島県高須地区にある民家の応接間の壁裏に残っていた白壁に上から墨滴を流したような黒い雨の跡を分析したところ、炭素、珪素、鉄、それに原爆由来のウランが検出されたそうです。

*「上の葉つぱから下の葉つぱへ」という下降運動をたんねんにたどる前半の造型は、「硫酸のような」という一句、「きのうの雨には――」という一句によって突然突き崩される。そして、ふたたび「上の葉つぱから下の葉つぱへ」と下降運動を小野がたんねんにたどるとき、恐怖の相がしずかにあらわれているのだ。核兵器実験の不安・核兵器戦争の恐怖が読者のまえに立ちふさがる。寸分あやまりない計算の上に立った、しかも計算された以上の拡がりを示さずにはいない佳作である。《安》