2017年8月15日火曜日

北越雪譜

   北越雪譜

野山をかすめて
ま綿を投げたようにふる雪の中。
北越では
きょうも列車が立往生だ。
前に二台とうしろに一台。
三台の機関車が吐く黒煙が
雪空にまっすぐに高く立ちのぼっている。
ふとおれは気がつく。
車内にとじこめられて
さっきからうたたねしていたやつらの服装が
なんともみな物々しく異様なことに。
まるでその風態たら
一世紀ほどむかしの
メキシコかベネズエラかどこか中南米あたりの革命軍の兵隊さながらである。
日本の農民は変じて
いつこんな装束をまとうことになったのか。
白いつば広帽子のあご紐をしめて
銃身の長い旧式鉄砲をたずさえ
肩から弾薬帯をかけわたしているのだ。
陽灼けした顔に八字髭など生やしているやつが多いが
どうもそれはこの地方の風習ではない。
そう云えば
やつらの足もとにころがってる酒壺のかたちも
あまりこのあたりでは見かけないものだ。
中味はどぶろくや焼酎ではなく
なんとかいったな、あれは、テキーラ?
竜舌蘭の葉っぱからしぼった
もっとすごく強烈な酒かもしれない。
してみると
ここは雪におおわれた北越の山中の針葉樹林地帯だということがおかしい。
外はシャボテンなんかが生えている岩石砂漠。
いま照ってる太陽は
灼きつくような熱帯の太陽ということでなければ。
おれはそう思いかける。
いや、夢うつつの中ではまさにそうなってくる。
だが、たぶん雪おろしをしているのだろう。
どこかで
農家の父と子が交わしてる
おれにとっては悲しくもなつかしい日本語が
そのとききこえてきた
 はよ あがって ござい
 おい いまいくすけ んななん さぎ ままけ
 いやの まってんわの
 いま ずっき いくど……


「北越雪譜」(ほくえつせっぷ)=写真、wiki=は、江戸時代後期の越後の自然と生活を描写した書物。著者は越後塩沢の人、鈴木牧之で、山東京山編、山東京水画、初編3巻、2編4巻の計7巻からなります。初編は1837年(天保8)、2編は41年に出版されました。書名のとおり、雪を自然科学的な目からとらえた記述が中心で、日本の科学誌の先駆的存在ともいえます。越後の産業や生活についても記されていて、経済史や民俗学の研究にも貴重な資料となっています。挿絵が多く入れてあるのも特徴です。

牧之がこうした書物を著す動機となったのは、20歳前後の江戸行きにあるといわれています。華やかな江戸の生活に比べ、「雪」という宿命を負わされた故郷の様相を世間に知らせたいという願いからであったようです。牧之はすでに20代後半からこの出版を計画していましたが、頓挫を繰り返し、目的を達成するまでには40年の歳月が費やされました。

この詩集が出された1960年代には、中南米最大の反政府武装組織「コロンビア革命軍(FARC)」も生まれています。農民の自警組織として1960年代初頭に活動を始め、64年には既存体制の打倒を目指して武装闘争を開始しました。麻薬取引や誘拐による身代金を主な資金源とし、最盛期には2万人超の兵力を有するようになりました。91年の大手電機メーカー社員誘拐事件や2001年の日系現地法人役員誘拐・殺害事件など、日本人も被害に遭っています。

*北越の雪のなかで立往生した列車のなかで小野は、乗客である日本の農民が中南米あたりの革命軍の兵隊に変貌するのを見る。窓の外も「雪におおわれた北越の山中の針葉樹林地帯」ではなく、「シャボテンなんかが生えている岩石砂漠」でなければということになる。その夢うつつの中を「悲しくもなつかしい日本語」、まぎれもない日本語がきこえてくるのだ。
 小野は日本の風景と異国の風景とを垂直に重ねあわせるという操作をよくする。「スカンボの花とチョウデの花」では、スカンボの花咲く信州の裏山が、チョウデの花咲くディエンビェンフー盆地の山道と重ねられる。「城砦」では、子供たちが陣地づくりをして遊ぶ大和の山が、猛烈な爆撃に吹っとぶグアーダラマ山脈の岩石と重ねられる。水平的にとうてい重ねられないものを垂直的に重ねあわせることによって、遠近法の測定をしているのだ。これは連想などといえないもっと直接的な操作だ。重ねあわせるのは無理は承知で重ねあわせて、重ねあわせることができるではないかと一瞬おもわせて、さて、本当に重ねあわせるにのには何が足らないか、何が必要か、などという測量を想像力に課しているのだ。この詩集が「現実と相わたることなきユートピヤと受けとられることは、いまこの詩集を出すわたしのむしろのぞむところ」(「あとがき」)という小野の言葉の底には、このようなプログラムの意識がしっかとあるのだと想像する。
 題名の『北越雪譜』は、江戸時代の随筆集で、日本における科学随筆の先駆ともいうべきもので全七冊からなる。著者鈴木牧之(1770-1842)は越後国塩沢の人で質屋と縮布問屋で産をなした。
 安東次男は牧之の「風雅をもつて我国に遊ぶ人、雪中を避けて三夏のころこの地を踏むゆゑ、越路の雪を知らず。然るに越路の雪を言の葉に作る意ゆゑたがふ事ありて我国の心には笑ふべきが多し」と引いて次のように述べている。
「その説くところ、いわゆる花鳥諷詠の情の形骸化をするどく衝いている。小野の詩篇は、現代において鈴木牧之の反風雅を受け継いだらこのような作品になった、と解すれば面白い。そこで編者は作者にただしてみたが、『題名を借りたまでで、詩の主題と直接関係なし』という答えを得た」(『日本の詩歌 第20巻』)
 小野の心は『北越雪譜』の風雅・反風雅にはなかったのだ。小野はシャボテンなんかが生えている岩石砂漠で、雪おろしをしないと生きられない雪国の「悲しくもなつかしい日本語」に耳奪われていたのだ。
 この作品の最後の四行(「はやくあがってきなさい」「おい今いくからおまえたちさきに御飯をたべろ」「いいえ待っているよ」「今じきにいくよ」)は、新潟県北蒲原郡堀越小学校六年加藤敏子の「日がくれても雪おろし」という詩から採ったものである。
 夕方になっても
 父は屋根の上からおりてこない
 こもりしながら出てみると
 一しょうけんめい 雪かきをしていた
 「はよあがって ござい」
 「おい 今いぐすけ んななん さぎ ままけ」
 「いやの まってんわの」
 「今 ずっき いくど」
  雪が どさっ どさっと 屋根からおちてくる
 父のかげが
 雪のところに くろく見えた。
  (『綴方風土記第7巻北陸山陰篇』平凡社)《安》




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