2017年8月18日金曜日

奥の細道

   奥の細道

ゆく先には
いつも町があった。
構内線ががちんがちんとわかれひろがり
白い蒸気を吐いている機関車や
跨線橋が近づいてくると
そこは人口十万か十五万の中小都市であった。
その町には大学があった。
サークルというやつもあった。
チャックのついた鞄をさげて
芭蕉が降りると
大学生や労働者が迎えにきていた。
ときには出迎えは
詩を書く青年であったり
結核患者であったりすることもある。
芭蕉はかれらと車に乗って
街はずれの大学に行く。
工場に行く。
そこで五十人ばかりの人間にとりかこまれて
一席俳話をやる。
そして話がすむと
「ザンボア」とか「青い鳥」とかいう
しゃれた名前の茶店で
弟子たちとビールを飲む。
お城なんかにひっぱっていかれるときもある。
芭蕉は風に吹かれながら
ネオンの燈もまじった
田舎夕べの市街を見わたすのだ。一句生れかね。
だが、いま芭蕉のいるところはどこだ。
どこの山国をゆくローカル線だ。
その先には町はない。
跨線橋もない。
出迎えるやつはだれもいない。
予想しないことがやがて起る。
芭蕉はいまおそろしく不安だ。
眼をやると
灼きつくような秋の陽ざしの中に
赤いとうがらしを干しわたした農家の庭が
つぎつぎと はすになってすぎていく。
その真赤に燃えたつものは
いつまでもいつまでも
すぎきたり、すぎ去り
つきることがない。


芭蕉の「奥の細道」は、1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)、門人河合曽良を伴って江戸を旅立ち、奥羽、北陸の各地を巡遊、8月21日ごろ大垣に入り、さらに伊勢参宮へと出発するまでの、約150日間にわたる旅を素材とした俳諧紀行です。

芭蕉は3月27日の早朝、門人曽良を道連れに、知友門弟たちとの離別の情を「行春や鳥啼魚の目は泪」の句に託して旅立ち、草加、室の八島を経て日光山東照宮に詣で、黒羽滞在中には雲巌寺に仏頂和尚山居の跡を訪ね、謡曲の名所殺生石、遊行柳を見たのち、待望の白河の関址を越えて、ようやく旅心が定まりました。

須賀川に旧知の等窮を訪ねて「風流の初やおくの田植うた」を披露。浅香山、信夫もじ摺の石、佐藤庄司の旧跡、武隈の松などを見て、5月4日(陽暦6月20日)仙台に入り、近郊の歌枕を訪ね、画工加右衛門の風流心に打たれます。壺碑(多賀城碑)を見て塩竈神社に詣で、松島の勝景を中国の洞庭湖や西湖の眺めにも劣らぬと賞賛しますが、絶景を眺めたときには詩作を控えるという中国の文人的姿勢に倣って発句を記載しません。

石巻を経て平泉に至り、奥州藤原氏三代の栄華の跡に涙を流して「夏草や兵どもが夢の跡」と詠み、自然の猛威に堪えぬいた光堂をたたえて「五月雨の降のこしてや光堂」と残す。出羽国尾花沢に清風を訪ねてくつろいだのち、立石寺に詣でては「閑さや岩にしみ入蝉の声」。最上川を下り、出羽三山を巡礼して、鶴岡、酒田から象潟に至り、松島は笑顔の美人、象潟は悲愁の美人と対比的に叙述して「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠みます。

越後路では「荒海や佐渡によこたふ天河」と旅愁を詠じ、金沢、小松、那谷寺、山中温泉と来て曽良に別れ、福井から等栽とともに敦賀に行き、西行ゆかりの色の浜に遊んでは「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」。露通の出迎えを受けて大垣に入り、門人たちから歓待されましたが、やがて9月6日(陽暦10月18日)伊勢の遷宮を拝もうと「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句を残して大垣を旅立つところで紀行は結ばれています。

*いつもちゃんと出迎えられて、ちゃんと見送られて、無事に旅とやらをつづけてきた現代の芭蕉は、いまや「おそろしく不安」になっている。行く先に町がないから、出迎えるやつがいないから、こんどは無事に帰ってはこれないらしいのだ。芭蕉ならぬ小野もたのまれて各地のサークルめぐりなどをする。出かけていって市の話などをする。
「ゆく先はいつも人口十万か十五万ぐらいの中小都市で、そこには大学があり、労働組合があり、サークルがあり、駅のホームに降り立つと、大学生や労働者が迎えきてくれている。ときには出迎えは詩を書く青年であったり、教育委員会の職員だったりする。やってきた講師はかれらと車に乗って、街はずれの大学や工場や公民館みたいなところに行く。お寺であったりすることもある。そこで、多くても百人に満たない若い人たちの前で詩の話をする。そしていくばくかの謝礼をもらって、また駅まで一しょに車で来た四、五人の人に見送られて帰ってくる。行きっきりということはまったくなく、必ず当然のように帰ってくるこのような行動のくりかえしに、いい気なもんだなと、ときにわたしは疑問に感じることがあった。あえて詩や文学サークルだけの問題だけでなく、世の中には、行きっきりというか、自ら退路を断つというか、そういう地方の人人の日常の中に膠着してしまわなければわからないことがらがずいぶんとあるのだ。そのとき、その場でちょっと相つながったというような実感と、その記憶だけで、自分の行動を合理化していることをはずかしく思うときがあった」(『奇妙な本棚』)。
 この小野の文章を読めば、この作品のモチーフは判然とする。「行きっきり」になるかもしれない、「自ら退路を断つ」ことになるかもしれないと、「おそろしく不安」になっている現代の芭蕉は、いまはじめて「奥の細道」へわけ入ろうとしているのだ。云ってみれば、これは現実との対し方の問題であり、と同時に詩と大衆についての問題であり、専門家の問題である。「なるほど、詩が大衆のものになる、それも結構、詩がだれにも理解できるようになる、それも結構、詩はあくまでもわれわれの生活に必要だ。しかし、専門家の詩人が必要だ。あくまで専門家としての詩人が必要だ、必要だ」というナジム・ヒクメットの言葉を小野は先に引用した文章につづいて想いをこめて引用している。《安》

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