2017年8月30日水曜日

昆明の夕だち

   昆明の夕だち

雲煙万里。
その所在はだれも知らない。
天山の向う
トルファンの窪地か
ジュンカル盆地の辺か
印緬国境の山奥か
時間のながれはそこで大きく屈折し
われらの住んでいる世界と次元を異にする世界がある。
鳥瞰すれば
四キロ平方くらいの土地に
一すじの小川が見え
小川の沿うて
一かたまりの聚落が
銅板に針で刻まれたように
チカチカと光っている。
そこに立ち入るためには
物理的には不可能な力で
その屈折し重層する時間の壁を突破しなければならない。

一九二四年
夏のある夕だった。
そこから
われらの世界に帰ってきた者がいる。
はげしい夕だちに煙る昆明の飛行場に
小さな旅行鞄をぶらさげ
一人の男が降り立った。
まっすぐに落ちる蒼い夕だちの中に。
中国辺境のどこからどうして
おんぼろの、けれどもあきらかにわれらの地上の物たる
双発飛行機に乗りつぎ、乗りついで
われらの世界に帰投することができたのか。
タラップを降りると
びしょ濡れになるのもかまわず
しばらくの間そこに佇立して
彼がいまそのはるかな彼方から帰ってきた雷雲の残っている空に眼をやって
おもむろに
いずこにか立ち去った。

地球の時計で云えば
十幾年と推定される時間を
そこで過してきた彼が見たこと
彼の記憶の中にたたみこまれたことについて
われらはなに一つ知るべき手だてを持たない。
絶叫のごときものが
エコーをひいて遠ざかるだけ。
ただ否定できぬことは
屈折する時間の裂け目を突破し
仮説の次元に存在する
われらには見えない黄金の地域と
往反可能だった者が
実際にいたということだ。

その日、そのとき
おれは二十一才だった。
拠るべきものはこれ以外になしと気負って
詩を書きはじめていた。
本郷富士町の下宿屋の二階の
西日が射す三畳の部屋で
物も景色も人間も
現実に存在するものから遠くないそんな詩、
そんな言語の構築に夢中だった。
未だにそこから抜け出せない
厚い壁の中で
リアリズムという言葉と方法をおぼえ
ふぬけた歌をうたっていたのだ。

おれは知らなかった。
知っても信じはしなかっただろう。
その日、そのとき
昆明の空港ははげしい夕だちに煙り
そこに飄然と
一人の男が降り立ち
そのまま永久に
われらの世界からも
現実からも
行方不明になってしまったことを。
おそらくは詩そのものからも。

おれがこの世を去るとき
万が一だが
ひょっとすると
われらの世界から行方をくらましたあの男は
小さな旅行鞄を一つぶらさげて
その日もはげしい夕だちに煙る昆明の飛行場に再び姿を現わすかもしれない。
トルファンの窪地か
ジュンカルの盆地かは知らず
所在は依然として不明だ。
だが、彼は帰っていくだろう。
そしてたぶん帰りつけるだろう。
屈折する時間の壁を突破して、そこに。

昆明は、いまも
革命中国の地図の上に現実に存在する
雲南省の首都である。

この作品は戦前のアメリカ映画「失われた世界」のなかの一場面に触発されて書かれたそうです。


「失われた世界」(The Lost World)の原作は、1912年にコナン・ドイルが発表したSF小説です。新聞記者マローンが、古生物学者のチャレンジャー教授の家を訪ねると、アマゾン奥地で古代に絶滅した生物達が生き残っているという「失われた世界」を発見したことが知らされます。教授は、その地への探検旅行を提案し、マローンらとともに南米のアマゾン流域へ向かいます。ジャングルと沼地を抜けてたどり着いた「失われた世界」は、平原に屹立する巨大な台地にありました。台地は恐竜など驚くべき古生物たちの住む世界で、一行が目にするものはすべてが新種でした。教授らは凶悪な猿人の群れに襲われますが、なんとか猿人の村から脱出し、猿人に圧迫され虐殺されていた原住民たちと協力して猿人たちを滅ぼします。ロンドンへ戻ったチャレンジャー教授は学界で冒険の成果を発表しますが誰も信じません。しかし運んできた大きな箱を人々の目の前で開けると、中から翼竜が飛び出してきて事実だったことが証明される、といったストーリーです。

映画は1925年に公開されました(無声映画)。ストップモーションや特殊メイクを使用し、当時としては極めてリアルに「われらの住んでいる世界と次元を異にする世界」と、そこにすむ生物たちが描かれ、大ヒットしたそうです。

「昆明」は中国雲南省中部の都市。人口約165万人、鉄鋼業など工業も発達し中国西南部の経済中心です。夏冬の温度差が小さく、またツバキ、ツツジなど豊かな自然に恵まれ「春の都」「花の都」ともよばれます。古くは西南夷の地で、昆明はその一部族の名前だったそうです。三国の蜀のときには、有名な諸葛亮(孔明)の南征によって建寧郡が成立し、6世紀には昆州となりました。

*小野が鋭い視力と息長い呼吸を賭けてたくらんでいる仕事の輪郭を知るのにかっこうの力作である。《安》

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